NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ミハイル・オレリコヴィチをノヴゴロド公として迎えるノヴゴロドの人々
ja.wikipedia.orgより

カジミェシュ四世
ja.wikipedia.orgより

 モスクワに対抗して国防を組織するために、ノヴゴロドの民会はミハイル・オレリコヴィチ(キエフ公の息子でイヴァン三世のいとこ)(※)を招聘した。このミハイル・オレリコヴィチは抑制力の欠けた人物であった。だが、ノヴゴロドは彼の能力を信じ込むあまり、すぐにモスクワのイヴァン三世に対して愚かな行為を始めるようになった。彼らは、モスクワ大公の命令を無視したり、モスクワへ税を送ることを中止したり、大公が所有するノヴゴロドの地の奪還を始めたりした。さらには、その無鉄砲な気質にしたがって、ノヴゴロドに駐在するモスクワの代官へ罵言を浴びせたり、侮辱的態度を取ったりし始め、代官の周囲の人々への暴力行為をも行うようになった。ノヴゴロドの国境付近にあるイヴァン三世の兄弟たちの地では、「多くのいやがらせが行われるようになった」のである。

 モスクワでは、こういった軽率な振る舞いすべてが周知されていた。イヴァン三世においても、永遠に双方間の紛争の常なる根本原因を取り除くためにできることは、ノヴゴロドの人々と同じく、二つの方法しかなかった。すなわち、ノヴゴロドを自由勝手にさせるか、いわゆる、完全なプログラムに従ってノヴゴロドを服従させるか、である。

 ノヴゴロドを自由にさせること――それは、国庫収入に直結する豊かな財源を失い、ヨーロッパとの貿易が困難になることを意味していた。以前はモスクワがノヴゴロドを服従させるには軍事力が十分でなかったが、今はちょうど良い潮時のようであった。ノヴゴロドは古からウラジーミル公の世襲領地であって、完全に公権力の下から脱したことは一度もなかったが、様々なことをしょっちゅうしでかしていた。

 分領諸公らに遠征への準備を指示したイヴァン三世大公は、それでもノヴゴロドの主教と住民らに宛てた文書で、北国人(ノヴゴロドの人々)に秩序を保つよう呼びかける試みをなした。一方、北国人とミハイル・オレリコヴィチはうまくいっていなかった。

 民会は、ポーランド王でありリトアニア大公であるカジミェシュ四世に軍事援助を直接求めただけでなく、民会の共和体制のすべての基盤を保持する条件で、カジミェシュ四世の権力下にノヴゴロドを置くことを申し出た。後に、いくつかの古代の史料において、とりわけモスクワの史料においては、この事件は貴族の陰謀と下層民の反乱とみなされているが、これは、どんな犠牲をはらっても自分たちの自立性を守りたいというノヴゴロドの人々の必死の選択であったのだろう。当時息子をチェコ王位に就かせることで多忙であったカジミェシュは、ノヴゴロド人との契約に調印しなかったが、南方からルーシを急襲するよう汗国に依頼するために急使を汗国へ送り、モスクワの注意をノヴゴロドの諸事からそらした。

 次回は「モスクワにおけるノヴゴロドの鎮圧」。乞うご期待!

(文:大山・川西)

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