NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

シェロン河畔の戦い
istoriarusi.ruより

現在のシェロン川
ru.wikipedia.orgより

 ノヴゴロドから依頼されたカジミェシュ四世(ポーランド王でありリトアニア大公)が、南方からルーシを急襲するよう汗国に急使を送った事実は、モスクワのイヴァン三世によるある決定を促すこととなった。それは、武力によるノヴゴロドの鎮圧である。無論、それはイヴァン三世によってかなり前から考えられていたことで、今回実際の行動に向けて手続きし、段取りしたに過ぎなかった、ということはあり得る。

 1471年5月末、ノヴゴロドにはモスクワから「蹴散らす」書簡(宣戦布告状)が送られ 、道が乾くと、ルーシ諸公の軍隊がいくつかのルートを使って進軍した。大公自身は、自分の家来とトヴェーリの軍隊を連れて後方から進んでいった。「ノヴゴロドの地を荒廃させ、住民を捕虜として連れ去ること」といった軍への命令は、ほぼタタール式のものであった。軍司令官らは、ノヴゴロドの人々に恐怖心を与えるために、多くの捕虜たちの「鼻、耳、唇」を切り取るといった行為をさらに為していた。だが、こういった残酷さは決して必要なものではなかった。というのも、訓練も十分に受けておらず、装備も不十分なおよそ4万人のノヴゴロドの義勇兵たちは、ほとんど役に立たなかったからである。

 7月14日、シェロン河畔の戦いにおいて、ノヴゴロド軍は決定的な敗北を喫した。義勇兵の内12000人もの兵士が羊のように切り殺され、2000人の兵士が捕虜として連れ去られた。こうしてイヴァン三世は、交渉ができる時期は永遠に過ぎ去ったことをノヴゴロドの人々に突きつけたかったのである。

 逃げ切ることができた義勇兵らと近辺の住民はノヴゴロドに閉じこもったが、すぐに自分たちの企ての無意味さを理解した。なぜならば、町にはしかるべき食料の備蓄すらなかったからである。

 シェロン川の河口にあった大公の本営へ、聖職者や名士の代表団が嘆願するために向かった。

 イヴァン三世は無論、モスクワ側の条件に従った和平条約に署名した。ある意味で条約の内の諸条項は、モスクワとノヴゴロドがまったく対等であるかのようにも見えた。モスクワはノヴゴロドにトルジョークの地、ドヴィナの地で最近獲得した土地を返還し、そして肝要なのは、町に民会の社会的機構を残したことであった。とはいえ、イヴァン三世はノヴゴロドに莫大な賠償金を課した。

(文:大山・川西)

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