NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

「女市長マルファ ノヴゴロドの民会の壊滅」(クラヴジイ・レベジェフ画)
ru.wikipedia.orgより

モスクワへ運ばれるノヴゴロドの民会の鐘
ru.wikipedia.orgより

 1477年11月にモスクワの軍隊に包囲されたノヴゴロドは、イヴァン三世との交渉を試み、双方の話し合いは翌年の1月まで続いた。ノヴゴロド側の使者はノヴゴロドが有していたかつての特権を一部でも保持しようと努めたが、イヴァン三世は頑としてその願いを受け入れなかった。彼はノヴゴロドに対して、「旧来通り」裁判所はノヴゴロドに残し、ノヴゴロドの貴族の世襲領地に手を付けないことを約束したが、民会を解散し、すべての統治を大公に委ねることを要求したのである。

 ノヴゴロドの使者たちが戻って民会で話し合いの結果をすべて報告すると、まず最初に平民と貴族が、その後すべての者が互いに罵り合った。このような状況では深刻な事態である防衛については話し合う術もないことを理解したノヴゴロドの軍司令官は、町への宣誓を取り消してイヴァン三世の下で軍務に就いてしまった。

 ノヴゴロドの人々には、降伏以外の他の選択肢は残されていなかった。

 1月15日、ノヴゴロドの町にモスクワの貴族らが入り、人々に大公への忠誠の誓いを立てさせた。その後、イヴァン三世自身の盛大な町への入場が果たされ、1478年1月20日には彼は、モスクワにいる母親、府主教、息子イヴァンの元へ書簡を携えた使者を送り出している。彼はその書簡の中で、「ノヴゴロドを自分の意向に沿わせ、モスクワにおけるのと同様、ノヴゴロドでも君主となった」ことを伝えた。2月の半ばまでに大公はノヴゴロドの地における行政を早くも整え、騒動の首謀者らを罰し、貴族と共に宴会を催し、贈呈品を受け取り、自身も多くの者たちに贈り物を与えた。

 3月5日、イヴァン三世がモスクワへ帰還した際には、「真珠や金、銀、宝石」が300台の荷馬車によってモスクワへ運ばれていった。換言すれば、ノヴゴロドは一切合切をモスクワに略奪されたのであった。ほどなくして、ノヴゴロドの民会の鐘も奪われ、モスクワのウスペンスキー大聖堂に他の鐘と共に吊るされた。これが、ノヴゴロドの自由民の歴史における最終ページであった。ノヴゴロド人の自由思想の風潮はすぐに消え去りはしなかった。そのため、その後のモスクワとノヴゴロドの関係性の進展は平坦な道のりではなかった。しかし、それはすでに、一介の分領都市と大公との関係に過ぎなかった。

(文:大山)

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