NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ウグラ川を挟んで向かい合うアフマト汗とイヴァン三世
https://ria.ruより

現在のウグラ川
ru.wikipedia.orgより

 イヴァン三世の統治機関、ルーシの歴史においてさらにもう一つ終止符が打たれたものがあった。事の成り行きは以下のようなものであった。

 1480年、大汗がルーシへ遠征するために用意を整えているという報がモスクワへ届いた。そもそもアフマト汗にはルーシへの進軍を試みる理由が以前からあったのだが、大汗の軍事力はすでに過去のものとは異なっており、彼は進軍を開始するためには好機をうかがう必要があったのである。

 今や進軍する絶好のチャンスが到来しているように思えた。西方からはポーランドのカジミェシュ四世がルーシへ急襲すると脅し、リヴォニア騎士団がプスコフ攻撃していた。大公はといえば、彼の弟たちのアンドレイ(年長の方)とボリスと仲たがいしており、彼ら弟たちは自分たちの従士団を引き連れてリトアニア国境の方へ遠ざかっていた。

 夏近く、汗はモスクワを目指して進軍を始めた。イヴァン三世は、軍隊を引き連れて二か月以上もオカ川のほとりでタタール人らを待ち受けていた。しかし、汗はモスクワ公国の国境近くに野営テントを張り、いかなる行動にも取りかからなかった。そして、ようやくカルーガよりも南方でオカ川を渡河すると、タタール軍は、ウグラ川に向かって進軍した。このウグラ川沿いにルーシとリトアニア間の国境が伸びていた。

 経験豊かな軍司令官と息子のイヴァン、弟のアンドレイ(年少の方)を軍隊と共にウグラ川へ差し向けたイヴァン三世は、9月30日にモスクワへ戻った。その後の計画を練り上げるためだった。おそらく、ボリスとアンドレイ(年長の方)との和解の兆しが見えてきたのであろう。というのも、時をなるべく引き延ばすことが決定され、汗との交渉に入ることになったからである。10月3日、イヴァン三世はタタール軍に向かって出発したが、クレメネッツの後方へ野営を張った。この時までにすでにルーシ軍は何日間も、数多くの火縄銃と野戦砲を用いて、ウグラ川と渡ろうとするタタール人を首尾よく撃退していた。

 交渉が始まると、タタール軍は川から2露里のところへ退いた。だが、汗は、イヴァン三世がもう九年間も貢税を支払わず、汗国にも赴いていないことを責めて、和平案を承諾しなかった。イヴァン三世は、自分に対する非難には興味がなかった。明らかに無益な交渉によって一週間が過ぎ去った。その一方、10月の終わりには、大公の弟たちが軍隊を引き連れてすでにクレメッツの近くへ来ていることが明らかになったのである。

(文:大山)

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