NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

タタールの使者に対して不服従を宣言するイヴァン三世
ru.wikipedia.orgより

 すでに9年間も貢税を汗国に納めていなかったイヴァン三世との和平案を承諾せず、ウグラ川を挟んでイヴァン三世の軍隊と対峙していたアフマト汗の軍に動きがあったのは、1480年の秋のことであった。10月の終わりに、大公の弟たちが軍隊を引き連れてすでにクレメッツの近くへ来ていることが明らかになった。その頃にはウグラ川は早くも寒さで凍結し始めており、イヴァン三世は自軍をウグラ川岸辺から離れさせ、より遠く離れているボロフスクへ後退させた。そこでタタール軍に決戦を挑むつもりであった。

 強力な援軍が到着するタイミングでロシア軍部隊が後退し、ウグラ川の岸辺を明け渡したことを知ったアフマト汗は、イヴァン三世がタタール軍に大きな罠をしかけているように思われた。ウグラ川のさらに奥深いところへいる敵軍に偵察部隊を送ることは不可能であった。岸辺にはルーシ軍の斥候隊が残っていたからである。

 11月11日、結局カジミェシュ四世からの援軍を待たずに、汗は自分の軍隊を宿営地に引き返させた。その数日前の11月7日、イヴァン三世は大公国への汗の勅書を公然と引き裂き、これ以上汗国に服従するつもりはないことを公に宣言した。ルーシの国は再び民族の独立を得たのである。

 タタール軍の退却を確認した大公イヴァン三世は、モスクワへ凱旋した。「すべての人々が喜び、晴れ晴れとした様子であった…」。

 いくつかの史料においては、タタール軍の退却は、ルーシ軍の強さにタタール軍がもっぱら恐れをなしたため、と説明されている。無論、この事実はそれなりの重みがあったが、また別の事実もあった。それはまず、カジミェシュ四世が西方から急襲せず、アフマト汗に援軍も送らなかったことがある。それに加え、アフマト汗のお膝元である首都のサライ・バトゥがシベリア汗国の襲撃を受けたという報告を、汗が受け取り、その後に撤退に至ったという事実もあった。

 最終的にはアフマト汗は、冬のルーシにおいてはタタール軍の馬に必要な量の餌が得られない、ということを理解したのであった。

(文:大山)

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