NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

イヴァン三世が描かれたロシア切手(1995年)


ノヴゴロドの町にある「ロシア1000周年」記念碑に刻まれたイヴァン三世の像
ru.wikipedia.orgより

 言うまでもなく、ノヴゴロドの自由民の凋落、そしてタタールのくびきからの解放は、画期的な出来事であった。しかしながら、イヴァン三世個人にとっては、それはたいした意味のない、たまたま状況が重なって起こったことであって、彼の側からの執拗なイニシアチブによって生じた事柄ではなかった。もしノヴゴロドがもっと謙虚であったら、さらに数年は彼らの民会の鐘は鳴り続けたことであろう。もしアフマト汗が遠征を行わなかったら、たとえ貢税を支払わないという条件下であっても、多かれ少なかれ良好な関係が汗国とモスクワとの間で幾分かは続いたかもしれない。

 イヴァン三世の40年もの統治の間で何よりも優先されてきたのは、絶えず新たな地を自分の権力下へ服従させるという父親の方針を受け継いでいくことだった。

 多くの分領公たちは、モスクワと同盟を組む利点を理解していた。不信感を抱く者に対しては、イヴァン三世はどんな手段も厭わず、欺瞞、金、ずるがしこさ、軍事力、政略結婚、何でも利用できるものは利用した。

 ノヴゴロドに続き、イヴァン三世は首尾一貫して容赦なく、ペルミの地を、ロストフ公国にて最後まで独立を主張していた複数の郷を、ヤロスラフ公国を、リャザン公国を、トヴェーリ公国を、ヴャトカの地を、ウラル山脈を越えたユグラの地を、自らの勢力下に置いていった。リトアニアとリヴォニア騎士団は、ヴャジマ、チェルニーゴフ、ノヴゴロド・セヴェルスキー、ブリャンスク、プチヴリ、ゴメリ、そしてスモレンスクとヴィテプスクの地の大部分を、モスクワに明け渡さねばならなかった。

 さらにイヴァン三世は、親族の領土のことも忘れてはいなかった。1472年に彼は、亡くなった弟のユーリーの領地からドミトロフとセルプーホフ、モジャイスクを獲得した。さらにその後、自分の2人の弟と、親の従兄弟に当たるミハイル・アンドレーヴィチの分領地を、自分の領地に併合させた。

 イヴァン三世がこのような政治手腕を発揮すると、通商関係と国交を整えるためにモスクワへ外国の使節団が頻繁にやって来るようになった。ルーシの外交もまた大きく発展し、以前から伝統的につきあっている国は別にして、20以上のヨーロッパやアジアの国々との国交を樹立した。これらすべての偉業のために、14世紀の外国とルーシの歴史家たちはイヴァン三世を「大帝」と呼んだ。

(文:大山)

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