NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ピエトロ・アントニオ・ソラリによって再建されたモスクワのクレムリン


双頭の鷲
МИА ≪Россия сегодня≫より

 モスクワ大公国が独立した力強い君主国家になったにもかかわらず、イヴァン三世の公式の称号は以前通り、「大公」のままであった。だが、この称号は単に、公一族における序列上の優位を意味しているに過ぎなかった。1470年代初めに汗国への貢税の支払いを止めたイヴァン三世は、称号変更の時機が到来したと判断した。

 1474年にリヴォニアと和平条約を結んだ時、イヴァン三世は初めて自らを「ツァーリ」と名乗った。この新しい称号はヨーロッパの外交文書のごく限られた中で見受けられたものの、総じて西欧諸国家はこの新称号を無視していた。それにはおそらく、政治的な理由があったと思われる。

 というのも、その長に「ツァーリ」を抱く帝国においては権力機構の中に必ず教会の総主教が存在せねばならなかったが、イヴァン三世の父親の意向によって、ルーシの教会は、4人の東方教会の総主教の承認なくして、コンスタンチノープルからの独立を宣言していたからである。つまり、イヴァン三世をツァーリと認めることは、他の国家にとって、全正教会と対立することを意味した。

 モスクワの統治者の偉大さと増し加わった権勢は、その新しい称号、モスクワの華麗な宮廷儀式を一層完全なものとした。イヴァン三世は、皇帝ユスティニアヌスの接待の間と多くの点で似ている黄金の大広間にて、外国の使者たちと謁見した。

 首都とツァーリの宮殿を飾り立てるために、画家、建築家、熟練工が西欧から招聘され、さらには探鉱者、医者、大砲づくりの職人なども招かれた。1491年には、ヴェネツィアのマルコ・フリャジンによって、祝賀会と会議のためのグラノヴィータヤ宮殿が完成した。これは、クレムリンに建てられた最初の石造の宮殿であった。外国に遣わした使者たちから、他の国々では支配者は石の建物に住まうと聞いたイヴァン三世は、自分と大公家の女性(妻や姉妹、娘たち)のために、石造の宮殿を建設するよう命じた。府主教ゲロンチイとゾシマ、数名の貴族が彼の例に倣って、石造りの住まいを作った。

 しかしながら、ルーシでは木造家屋に住むのが健康に良いと昔から言われていたので、石造りの建物が広く普及するのはかなり後になってからである。

 イヴァン三世自身も木造の宮殿にとどまり、石とレンガからできた5階建てのテレム宮殿は、家族の祝い事や儀式に用いられた。1493年には、イタリアの建築家ピエトロ・アントニオ・ソラリが、モスクワのクレムリンをヨーロッパ中で最も難攻不落な要塞にしてほしいというイヴァン三世の計画を実現させ、全長2235メートル、高さ9~19メートル、壁の厚み3.5~6.6メートルの新しい要塞の壁を作った。1497年からはルーシの国務の用品の中に、双頭の鷲が公式に取り入れられた。

(文:大山)

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