NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

1490年に亡くなった若きイヴァン
ru.wikipedia.orgより


若きイヴァンの妻、エレーナ
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 イヴァン三世が自らを「ツァーリ」と名乗るようになると、それは彼の性格にも影響を与えずにはいられなかった。というのも、イヴァン三世と論争する者はおろか、ごく些細なことで意義を唱えようとする者すらほとんどいないほど、彼の手中には今や権力が集中していたからである。

 青年期以降に時折イヴァン三世に現れるようになった冷淡さときつさは、年を取ってからは豪逆さ、冷酷さ、残酷さへと変わっていった。牢獄は数が増していき、罪を犯した者の社会的身分に関係なく衆人環視の中で行われる公開鞭打ち刑のような恥ずべき刑が、ありふれた日常の光景となっていった。裁判は法律に従って厳しく取り行われていたとはいえ、取り調べの過程で拷問が適用されるようになっていった。同時代人は、あらゆる層の高官や役人が君主に対して本能的な恐怖を感じ、臆病な女性はイヴァン三世から一睨みされただけで気絶するほどだった、と指摘している。長時間にわたる晩餐会などでは、疲れ切った君主がテーブルに座ったまままどろみ始めると、会の参加者らは彼の眠りを乱すまいと身動き一つしないように努めたという。

 性格の変化は、イヴァン三世の最後の異名となった「恐るべき Грозный」にも表れていた。彼は生涯を通して明晰な頭脳の持ち主であったが、その一方で彼のすべてに対する倹約志向は時折グロテスクな様相を呈するほどであった。彼は、外国の使者に食用として羊を支給しながら、その毛皮を戻すことを要求していたのである。

 大公国において自らの一族に権力を継承させていくことについて、イヴァン三世はまだ自分が十分健康で力がみなぎっている時に手配を開始した。1477年に彼は、最初の結婚で誕生した唯一の息子であるイヴァン(若きイヴァン)を、自分の共同統治者兼公位継承者として正式に宣言したのである。その6年後、イヴァン三世は息子をモルダヴィアの君主ステファンの娘であるエレーナ・ヴォロシャンカと結婚させた。ところが、1490年、息子イヴァンは公妃と7歳の息子ドミートリーを残して、リウマチで亡くなってしまった。

 それ以降、多くの者が待ち構えていたが、共同統治者兼公位継承者として新たな者が宣言されることは数年間なかった。その間、可能性のある後継者候補について、社会のあらゆる場所で議論されることとなった。公の宮廷は徐々に2つのグループに分かれることとなった――イヴァン三世の孫であるドミートリー支持派と(彼らは多数派であった)、ソフィアとの結婚で生まれた年長の息子ヴァシーリーの支持派とに。

 イヴァン三世自身は、周りの者誰にもこのことについて自分の考えを打ち明けようとはしなかった。

 孫ドミートリーも息子ヴァシーリーも、拮抗する力を持つ一族の長であったが、より厳密な意味では、ドミートリーこそが直系であり、すでに伝統として確立された権力譲渡の対象者であった。

(文:大山)

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