NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ドミートリーを生んだエレーナ
ru.wikipedia.orgより


イヴァン三世の孫のドミートリー
ru.wikipedia.orgより

 1497年、貴族会議と府主教の完全な同意を得てイヴァン三世が大公位継承者として正式に孫のドミートリーを指名し、その上戴冠式まで行われることが、ソフィアとヴァシーリーの耳に入った。このことは、彼ら二人には秘密裏に話が進んでいた。とはいえ、貴族会議は諸手を挙げて戴冠式に賛同していたので、二人がこの一件を阻止できないのは明らかであった。

 しかし、当然ながら、母と息子は最も近しい側近らとこれらの状況を議論した。考え方はさまざまであった。下級貴族と宮殿の召使にひそかにヴァシーリーへの忠誠を誓わせようと提案する者もいれば、モスクワを離れて軍隊を集め、大公国の資金の一部が保管されているベロオゼロとヴォログダを占拠しようという者もおり、またドミートリーの暗殺を勧める者もいた。だが、それ以上の話をする者は誰もいなかった。というのも、君主と容易ならぬ形で衝突することは無益であるばかりか危険であることを、すべての者がよくよく理解していたからであった。

 しかしながら、こういった話は、あたかも陰謀が持ち上がっているかのようにイヴァン三世の方へ告げ知らされた。事態は深刻化し、ちょうどその頃宮殿の居室で、何らかの植物の草をソフィアのところへ持っていこうとしていたかのようなある農夫が捕まった。その植物の草は単なる薬草であったかもしれないし、それは大公妃のもとへ持っていくものではなかったのかもしれない。イヴァン三世は事件を深く追及するつもりはなく、この農夫は真夜中にモスクワ川で溺死させられた。さらに、ヴァシーリーの側近の内6人が処刑され、それ以外の者たちも手当たり次第に投獄された。イヴァン三世は息子ヴァシーリーを秘密の監視下に置き、彼は一年以上も事実上の監禁状態の内にあった。イヴァン三世はおそらく、ドミートリー暗殺を企んだ嫌疑をソフィアにかけたのであろう、その後彼女とは不仲の生活が始まった。

 1498年2月4日、「ビザンチンの教会法規に基づき」ウスペンスキー大聖堂で、15歳に満たない孫のドミートリーがウラジーミルおよびモスクワ大公国の大公位に即位する戴冠式が厳かに取り行われた。これでイヴァン三世には、すっかり成人した共同統治者がいることになった。

 あとやるべきことは、家族との関係修復であり、これにはほぼ一年が費やされた。年代記作者が言及しているところによれば、イヴァン三世は陰謀事件を再調査するよう命じ、ドミートリーの母親であるエレーナ・ヴォロシャンカの友人らが企てた奸計のせいで、彼が騙されていたことが分かった。実際に奸計が図られたのか、あるいはイヴァン三世が自分の権威が傷つかないよう家族との和解のために差しさわりのない口実をただ思いついたのかは、不明である。いずれにせよ、エレーナの側近の何名かは処刑された。しかし、孫のドミートリーとエレーナに対してイヴァン三世がある程度冷たくなったことを別にすれば、君主側から彼らへのいかなる処罰もなかった。また、ヴァシーリーに対しては、ノヴゴロド大公の称号と共にノヴゴロドとプスコフの地を委ねることを告げた。

(文:大山)

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