◆ 第1回 年代記とは?
リューリック到来の物語を始める前に、ロシア史に共通した概念、術語を知っておこう。
「ロシア」の古名は「ルーシ」という。
ルーシで最初に年代記が書かれるようになったのは、おそらく10世紀末頃であった。
残念なことに、最初に作られた形で今日まで残っているルーシの年代記は一つもない。
現在残っているのは転写したもの(写本)に過ぎず、ラブレンチノの写本とイパチエフスキー修道院の14世紀後半と15世紀初めの写本が最古である。
この二つの写本は最初の部分がほぼ同様のテキストとなっている。
その部分は『原初年代記』(『過ぎし歳月の物語』)と呼ばれ、さらに古い12世紀初頭に修道僧ネストルによってまとめられたものと考えられている。
年代記は、転写する写字生の不注意による書き誤りが自然に後世へ伝えられていってしまう欠点があったが、使用暦の変転によってもその記述に大きなもつれを生じさせた。
10世紀のキリスト教受け入れに伴い、ルーシにはギリシアと同じくユリウス暦が導入された。
それに加え、古代ルーシ国家では教会年は9月1日が年始とされたが、市民年の計算では、ノルマン人の間でそうであったように、
農作業の始まりに合わせて3月1日が年始とされていた。これらのことは、現代人にとっては想像することさえ困難な現象を、年代記の配列の中に生じさせている。
たとえば、ネストルは、7月、8月、12月の事件を順序良く記しているが、その後に同年の2月の事件を書き連ねている。
これらはキエフやスーズダリ、ノヴゴロドといった地方の年代記にも共通して見られる特徴である。
さらに1699年、ピョートル一世の勅令によって、1700年から年の始まりが1月1日となった。
驚くべきことに、ロシアの暦の変転はこれにて終わらない。
20世紀初頭、レーニンの主導の下になされた十月革命後の1918年1月、ロシアにグリゴリウス暦が導入されることが布告された。
このグリゴリウス暦はすでに以前からヨーロッパ諸国が用いていたものであり、ユリウス暦の日付よりも18世紀では11日分、19世紀では12日分、20世紀では13日分前倒しとなった。
最後に、ロシア年代記の特徴であるが、初期の年代記作者たちは、日常の生活の枠を越えた大きな事件――遠征や大火事、疫病などにとりわけ注意を払っていたことを指摘しておく必要がある。
それゆえ、ルーシの統治者の行為の動機や性格、その家庭生活、習慣に関する情報は、年代記にはかなり乏しいといえる。
次回は「北からやって来たヴァイキング」。乞うご期待!!
挿絵:『原初年代記』(ラジヴィール版)より引用
(大山・川西)
HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第1回
|