◆ 第2回 北からやって来たヴァイキング
今のロシア人やウクライナ人、白ロシア人の共通の祖先である東スラヴ人は、8、9世紀にはすでにドニエプル河流域に住んでいた。
共通の言葉を話す東スラヴ人たちはいくつもの部族に分かれて暮らしており、主たる生業は農耕であって、森林地帯では狩猟や養蜂が行われていた。
その当時、スカンディナヴィア半島には、ヴァイキング、またはヴァリャーグ、ルースと呼ばれた武装集団が住んでいた。
海賊として、ヨーロッパ各地を略奪して恐れられた北方ゲルマン諸部族であり、ノルマン人ともいわれる。
『原初年代記』によれば、東スラヴ人は9世紀の半ば頃、このヴァリャーグ人のもとに使者を派遣して、こう述べさせたという。
「われらの地は豊かではあるが、秩序がない。われらのもとに来て君臨して支配せよ」
この求めに応じて三人の兄弟が一族を引き連れてルーシに渡った、という話がそれに続いている。
この伝説には様々のヴァリアントがあるが、最も広まっている言い伝えによると、ヴァリャーグ人はリューリックがやって来る以前にすでに北方のスラヴ諸部族を統治していた。
彼らは穏やかに民衆を治め、土地の秩序を保ちつつ外敵の攻撃からその地を守り、見返りとして民衆から税を徴収していた。
いつ、どんな理由によってこの壮麗な統治が終わりを告げたのかは明らかになっていないが、しばらくしてスラヴ人の土地の大部分からヴァリャーグ人が追放された。
おそらく、スラヴ人は、慣らされた轍の跡を通りさえすれば、即座に自治を整えることができると考えたのだろう。
しかし、強力な自治体制は実現せずに、混乱と殺し合いが始まった。スラヴ人は以前にあった平和な生活を思い出し、ヴァリャーグ人を統治者として再び招致しようと決意した。
第二の伝説は、第一の伝説と多くの点で似通っている。
859年に、あるヴァリャーグ人の従士団が船でネヴァ川河口に着き、近辺に住むスラヴ人とフィン人らに貢税を課した。
スラヴ人とフィン人はしばらくして立ち上がり、新参者を「海の向うへ」追っ払ったが、今度は互いに争い始めるようになった。
他所から公を迎える必要があるという考えが、誰かの頭に浮んだ。
当時、バルト海沿岸海域すべてを支配するヴァリャーグ人以上に強い者は誰もおらず、スラヴ人と親しいヴァリャーグ人の公がそこで統治を要請され、招かれた。
第三の伝説はそれほど有名ではなく、ルーシにおけるヴァリャーグ人の出現を、ゴストムィスリの名前と結びつけている。
ゴストムィスリは北スラヴの地を治めていたが、老いても後継者となる息子を持たなかった。
自らの死を予感したゴストムィスリは、支配下の地から族長らを呼び集め、占い師が次のように解釈した自身の夢について語った。
占い師が告げたところによれば、彼の後継者となるのは、隣接の地のヴァリャーグ人の公に嫁いでいる、彼の娘ウムィラの息子であった。
そこで、使者がヴァリャーグ人に差し向けられ、しばらくして従士団を伴った三人の兄弟、リューリック、シネウス、トルヴォルがルーシへやって来たという。
←ヴァリャーグからギリシアへの道(ヴァリャーグ人はこの道を通ってコンスタンティノープルまで行き着いた)
次回は「伝説の建国者リューリック(統治862-879)(1)」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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