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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第3回 伝説の建国者リューリック (統治862-879)

リューリック(1672年画)  伝説の一つによれば、リューリックは、北スラヴの地を治めていたゴストムィスリの娘、ウムィラの息子である。現存している説では、リューリックの出自をスウェーデン人やデンマーク人、あるいはオランダ人としている。

 ルーシの地を統治するよう招かれると、リューリックは従士団や自分の親族を引き連れ、スラヴ人の地へ向かった。年代記作者ネストルは、リューリックの到着を次のように伝えている。

 「862年、選ばれた三人の兄弟が自分の一族を引き連れてやって来た。年長のリューリックはノヴゴロドを治め、次兄のシネウスはベロオーゼロを、三番目のトルヴォルはイズボルスクを治めた」

 イパチエフスキー修道院の写本などによると、「リューリックはまず初めにラドガの町(ヴォルホフ川河口にある)を自分の手中におさめ」、翌年に「イリメニ湖へ到着し、ヴォルホフ川の上流にある町を倒してノヴゴロドをつくった」。

 注意しなければならないのは、ここでネストルが言うノヴゴロドとは、正確には現在のノヴゴロド(大ノヴゴロド)と同一の場所ではない、ということである。長年に渡る考古学上の調査の結果、現在のノヴゴロドには10世紀前半の文化的堆積物が存在しないことが明らかになった。それに対して、古来より“リューリックのゴロディシェ(城塞跡)”との異名を持つ、ヴォルホフ川右岸にあるノヴゴロド近くの丘陵からは、同じく発掘調査により9世紀中頃の要塞都市の遺跡物が発見された。これらのことから推測するに、リューリックはおそらくラドガの町からゴロディシェへ至ったのであり、ラドガに比べて「新しい」町であるノヴゴロドは、その後に建てられ始めた。

 その他にも、年代記の年代順配列と考古学上の学術調査の結果とが一致しない原因となり得るような事実がある。それは、ネヴォゴロド――ノヴゴロドから北に200キロいったところにある、ラドガ湖畔の8世紀にできた町――の存在である。この二つの町の名前が似通っていたために、ネヴォゴロドで実際に起こった事件が、年代記作者らの手によっ てノヴゴロドの歴史に移しかえられるといったような不本意な出来事が生じた。

 リューリックが弟たちを、クリヴィチ族(東スラヴの種族連合を形成する一部族)の住まうイズボルスクと、ヴェシ族(ラドガ湖とベーロエ湖の間に住んだフィン系の種族)のいるベロオーゼロに住まわせ、自分自身はラドガに居を定めたことは、彼に少なからぬ統治経験があったことを証明している。当時、全部で三つの水路があった。第一に、ナルヴァ川を上りチュド湖を通り過ぎてイズボルスクへ至る西方の水路、第二に、ラドガ湖を通りヴォルホフ川に沿ってラドガへ入る東方の水路、第三に、オネガ湖とヴィテグラを通過してベロオーゼロへ出る水路である。地元の有力者たちの支持と助けを得て、リューリックはこれら三つの水路をすべて閉ざし、まさにそのことによって広大な領土を守り保持したのであった。

地図

 次回は「アスコリドとジル」。乞うご期待!!

(大山・川西)


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