◆ 第4回 アスコリドとジル
弟のシネウスとトルヴォルと共にルーシの地を治めていたリューリックは、弟たちが亡くなると、彼らが治めていたベロオーゼロとイズボルスクを自らの公国へ統合した。そして彼は、ベロオーゼロやポロツク、ムーロムの統治を同じヴァリャーグ人の有力者にまかせたが、これはおそらく、彼らへ領土を引き渡したというよりも、むしろその地での貢物の徴集や防衛、他の諸事の処理をゆだねたということであった。
この頃、リューリックに服従していたヴァリャーグ人のアスコリドとジルは、ノヴゴロドの北方にあるイリメニ湖付近の地を支配していた。彼らはそこから南方へ旅立ったが、その理由に関しては、二つの説がある。一つの説によると、彼らはリューリックの統治に不満を抱いており、自発的であったかもしれないし、リューリックの許可を得ていたかもしれないが、彼ら自身の従士団を引き連れてコンスタンチノープルへ向かった。別の説によれば、ノヴゴロドでリューリックの支配に反対する蜂起が起こり、アスコリドとジルを含むリューリックの戦友の多くが南方への逃走を余儀なくされた。
アスコリドとジルは南方へ向かい、ドニエプル川へいたる途中で、ポリャーネ族が暮らしていた小さな町キエフにぶつかった。ポリャーネ族というのは、言い伝えられているところによれば、穏やかで忍耐強い気質を有していたスラヴ人の種族の一つである。
町に入ったアスコリドとジルは、「ここは誰の町か」と町の住民に問いかけた。住民は答えて言った、「かつてキー、シチェク、ホリフという三人の兄弟がこの町を築いたが、彼らは死に絶えた。今では我々は、ハザール人(4~10世紀に南ロシアに住んだトルコ系遊牧諸種族)に貢税して暮らしている」と。おそらくアスコリドとジルは、町の住民たちから手ごたえのある印象を受けたのだろう。ポリャーネ族はアスコリドとジルにハザール人との交渉をまかせて、彼ら二人に自分たちの地を引き渡した。キエフに住む自分たちを平穏の内に放っておいてくれるのであれば、貢税をハザール人に払おうとアスコリドとジルに払おうと、ポリャーネ族にとってはさして変わりはなかったのであろう。
さて、このキエフであるが、いつ町が築かれたかという問題はいまだ議論の余地がある。「ヴァリャーグ人招致」の前にすでに、ポリャーネ族、クリヴィチ族、イリメニ湖地方のスロヴェネ族、そしてドレゴヴィチ族のところには独立した公国があったことは知られている。しかし、当時のキエフに言及している歴史文献は極めて少ない。
キエフに関する年代記上の言い伝えは、11~12世紀に書かれたとされている。町の創設者の長兄キーをめぐる伝説の一つによると、キーは平民出のドニエプル川の渡し守であった。昔の年代記作者はこのような月並みな出自に満足することができず、渡し守のキーをキー公へと書き換えてしまったのかもしれない。
次回は「予見者オレーグ(統治879-912)」。
乞うご期待!!
(大山・川西)
HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第4回
|