◆ 第5回 予見者オレーグ(統治879-912)
リューリックは、ルーシの地の統治と、幼い息子イーゴリの後見を、自分の妻の兄弟であり軍司令官として働いていたオレーグにゆだね、879年に亡くなった。父から子ではなく、一族の年長者への権力の譲渡は、当時のスラヴ人とノルマン人の慣習としてあった。
80年代の初め、アスコリドとジルが治めているキエフは力を強め、近隣の諸種族を従わせているという情報がノヴゴロドにまで伝わってきた。キエフは地理上、「ヴァリャーグからギリシア」への水路上の戦略的に重要な位置を占めてもいた。ここにオレーグが将来の脅威を感じ取ったのかどうかは定かではないが、彼はさまざまな種族から兵士を集めて大軍を編成し、南下していった。
しかしながら、大きな軍隊を引き連れていたにもかかわらず、オレーグのしかける武力攻撃が成功する保証はなかった。アスコリドとジルもまた、少なからず軍事に長けていたからである。
オレーグは一計をめぐらすことにした。アシの茂みに舟と兵士の一部を残し、残りの舟中に他の兵士たちを隠して町へ接岸するよう命じた。オレーグは、彼のもとからギリシアへ向かう豪商にしつこく頼み、「我らは商人であり、オレーグと公子イーゴリのところからギリシアへ赴く途中である。ヴァリャーグ人である同族の我らのもとに来たれ」と、アスコリドとジルに言わせた。何も疑わなかったアスコリドとジルは、わずかな護送者を連れて彼のところへ行き、そこで殺された。それに続いて、オレーグの従士団はキエフの町へ押し入った。882年のことであある。ポリャーネ族はその性格の故に、穏やかに権力の座をオレーグに引渡した。彼は、「この町をしてルーシの母なる町たらしめよ」と言って、キエフを首都と宣言したという。
907年、オレーグは大軍を集めて、久しい以前からヴァリャーグ人が獲得したいと願っていたコンスタンチノープルへ進軍していった。『原初年代記』は、オレーグがギリシア人の軍を打ち負かし、「勝利を示してツァリグラード(コンスタンチノープル)の門に自分の盾をかかげた」、そしてそのことはロシア史上、比類ない栄光をオレーグに与えることとなったと、伝えている。しかし、ギリシア側の数多くの史料にはどこにも、907年前後の時期にルーシ人がコンスタンチノープルを襲撃したという言及はない。研究者の大部分は、この行軍の話を神話か作り話ととらえがちであるが、オレーグが独力ではなく、その頃コンスタンチノープルを包囲していたブルガリアの皇帝シメオン一世の同盟者として戦ったということは考えられなくもない。
いずれにしても、ルーシ人の軍はビザンチンの首都の城壁の下にまで行ったのだ。このことに関しては通商条約が証明しており、その条約によると、ルーシ人の商人はコンスタンチノープルの郊外に逗留する許可を得たばかりか、さらに毎月ギリシア人から衣食住の供与を得ており、911年にキエフの使節団がこの条約を延長するためにビザンチンへ赴いている。
オレーグに関する無数の伝説やブィリーナから判断すると、彼は勇敢な司令官というよりむしろ聡明な者、いわゆる、賢い、あるいは巧妙な公として、民衆の記憶の中に留まったようである。
オレーグは諸説によれば、蛇に噛まれて亡くなったということである。
次回は「リューリックの子イーゴリ(統治912-945)」。
乞うご期待!!
(大山・川西)
HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第5回
|