◆ 第6回 リューリックの子イーゴリ(統治912-945)
リューリックの息子イーゴリの後見を頼まれたオレーグが912年に亡くなると、キエフ公国の支配権はイーゴリ・リューリコヴィチの手に移った。
イーゴリ個人に結びつく事件が年代記の中で最初に触れられているのは903年、彼がオリガと結婚した時のことである。
イーゴリは、猟や遠征、宴会といった事柄にのみ心を傾け、日常の些事にはほとんど関わろうとしなかった。妻のオリガを完全に信頼し、最も重要な国務をも彼女に委ねた。
913年、イーゴリはキエフから独立しようとしていたジェレヴリャーネ族(注)を鎮圧し、その後、従士団を引き連れてカスピ海へ向かった。
最初の内、遠征はうまくいっていたが、数ヶ月が過ぎるとイーゴリの軍隊は沿岸で狼藉を働くようになり、
このことがハザール帝国の支配者をしてイスラム教徒の兄弟らの復讐を決意させた。
イーゴリの軍隊はキエフへ戻る道すがら、ハザール帝国の軍隊に粉砕され、イーゴリは命からがら逃げのびた。
このとき受けた衝撃がイーゴリから領土拡大の望みを失せしめたかどうかは定かではないが、
年代記の中ではその後の20年間でペチェネグ人とイーゴリとの小戦闘が言及されているのみである。
とはいえ、他のヴァリャーグ人と同様イーゴリもまた、コンスタンチノープルへの遠征によって、自らの名声を高めたいと願っていた。
当時、東欧の領域では、大小数十のどこにも属していないノルマン人部隊が活躍していた。
ビザンチンへの遠征のために、イーゴリはおそらく、それらの部隊の幾つかと同盟を結んだのであろう。
その際、誰が軍事行動の主導権を握ったかということははっきりしていない。
遠征の結果、イーゴリの船団のほとんどすべては「ギリシア人の火」(ナパーム弾の遠い前身)によって滅ぼされてしまった。
この敗北の後、ビザンチンにおいてルーシの商人の迫害が起こるようになり、ペチェネグ人のルーシへの襲撃が始まった。
このペチェネグ人はビザンチン皇帝に買収されていたと考えられる。
943年、イーゴリはコンスタンチノープルへ再度遠征に赴くことを決心する。
彼は今度はペチェネグ人と同盟を結び、大きな船団を用意したが、最終的には襲撃するまでにいたらなかった。
キエフとペチェネグ人との同盟に不安を覚えたビザンチン皇帝は、イーゴリの軍隊へ向けて、和睦と徴税請負権譲渡の申し出を携えた使者団を派遣したのである。
イーゴリはそのどちらも受け入れ、キエフへ去った。
イーゴリの治世の最後には、キエフ公国の領土はカフカースからクリミア半島まで広がった。
彼はロシアの諸公の中では、人物についての外国人の証言が残されている最初の者である。
彼は太って背が低く、信じられないほど広い肩を持った異教徒であったという。
次回は「イーゴリの壮絶な最期」。
乞うご期待!!
(注)一般にいわれている“ドレヴリャーネ族”を指す。
しかし、“ドレヴリャーネ族”は当時代のはるか以前にその地域に住んでいた種族の名称であり、正しくない。
(大山・川西)
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