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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第7回 イーゴリの壮絶な最期

 イーゴリの行動の幾つかの側面は、ルーシの住人たちの明らかな非難を呼び起こすこととなった。 ビザンチン遠征から戻った後、イーゴリは同盟者であるペチェネグ人に、ルーシの国境付近に落ち着くことを許した。 その結果、国境付近の住人らは、ペチェネグ人の奔放極まりない性格によって多大な被害をこうむることとなった。 またイーゴリは、彼の支配下の土地から貢物を徴収する際にまったく中庸さを欠いた振る舞いをなし、そこでも住人の反感をかうこととなった。

 キエフ周辺の地で貢物を徴収する仕事には、キエフの軍司令官であったスヴェネルドが公から一任されていた。 10世紀のルーシ社会にあっては、キエフ公国の軍司令官は公に次ぐナンバー2とみなされていた。 スヴェネルドは戦争時、基となるキエフ従士団を援助するべく、各支配地から集められた義勇軍を率いて先頭に立った者であった。

巡回徴貢の順路(『ロシア史1』山川出版より)  さて、ビザンチン皇帝コンスタンチン七世の手記には、貢物徴収がどのように行われていたのかが記されている。 それによれば、ルーシの諸公か、あるいは彼らの代理人は、11月から従士団(ルーシ時代の公の親兵)を引き連れて巡回徴貢に赴いた。
その道は、相互条約によってキエフ公の朝貢国となったスラヴの諸土地を巡るものであった。 舟に乗った一行は、キエフからドニエプル川を北方へさかのぼり、その道すがらジェレヴリャーネ族やドレゴヴィチ族の居住地域で貢物を集め、 クリヴィチ族のスモレンスク付近で東に曲がってデスナ川上流域へ進み、ラヂミチ族、セヴェリャーネ族からも徴収して南下し、 ドニエプル川の氷が溶ける4月になるまでにキエフへ戻ってきた。 従士団は行く先々の住人のもとで宿営をかさね、貢物以外にも近隣諸国との貿易のための商品を集めながら、領土を回った。 同時に公かあるいは公から委任された者たちは、地方の論争的事件を審議した。

貢物徴収(『歴史の諸頁』モスクワ、1975年刊より)  945年の秋、従士たちはイーゴリに次のようなことを訴えた。 貢物徴収の際に自分たちの利益を汲み取ることを忘れないスヴェネルドの従士たちに比べて、自分たちの物質的状況がいかに惨めであるかということを。 従士団の気持ちにしたがい、イーゴリは彼らを引き連れてジェレヴリャーネ族のもとに巡回徴貢へ行き、その後帰途に着いた。 だが、従士のある者は、貢物がそれほど多く集められなかったにもかかわらず、イーゴリが戻る決意をしたことに不平を述べ立てた。 護衛をつけた一隊をキエフへ戻らせたイーゴリは、少数の従士たちを連れて再度ジェレヴリャーネ族のもとへ赴いた。 これを受けたジェレヴリャーネ族の地では民会が招集され、民会は、もし今イーゴリを殺害しなかったら、 毎年同じような二重徴収が繰り返されるようになり、自分らの地は荒廃に至るだろうという結論を下した。 それでもイーゴリに対する説得が試みられ、使者団が送られて「なぜまた来るのか?あなたはあらゆるものを貢物として持ち去るつもりか?」といって、 公に道理をわきまえさせようとした。ところが、イーゴリは貢物徴収を続けた。

イーゴリの最期は…  ビザンチンの年代記作者は、「ジェレヴリャーネ族は曲げられた二本の木の頂にイーゴリを結びつけ、その後木々を放した、 すると公の体は生きたままバラバラに裂けた」と伝えている。彼らの怒りをかった結果であった。 イーゴリの遺体は、その地のコロステンという町の壁のところに埋められた。

次回は「イーゴリの妻オリガの復讐」。乞うご期待!!

(大山・川西)


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