◆ 第8回 イーゴリの妻オリガ(統治945-961/964)の復讐
945年にイーゴリ・リューリコヴィチが亡くなった後、彼の未亡人で公妃であるオリガが、キエフで統治し始めた。
大部分の史料では、オリガの息子スヴャトスラフの誕生は942年と記されているが、これはつまり、父親が亡くなったとき、彼は三歳の子供だったことになる。
その場合、オリガが自ら統治の実権を握ることになったのは当然であろう。
さらに後の幾つかの年代記ではスヴャトスラフの実際の誕生年は920年とされているが、これはオリガと25歳の息子との間で権力争いがあったのではないかという疑惑を呼び起こす。
しかし、両者間のどのような紛争も史料は伝えていない。
イーゴリ公が行軍や宴会、猟などに特別な愛着を示し、国務を自分の妻オリガに委ねていたことを思い出せば、状況は幾分か明瞭になろう。
父親の資質を受け継ぎ、その後それが顕著になってきたスヴャトスラフは、公式には長にとどまったまま、自分にとって厄介な国家統治の職務を母親に自発的に渡していた。
あるいは、その当時、父親から息子へ権力が自動的に継承される規則や伝統はまだなかった。
おそらく、イーゴリの遠征でルーシ人の多くの兵士が非業の最期を遂げたことに住民が不満を抱いていたことも、オリガの国家統治をうながす一因となったろう。
父親の戦好きの気質をスヴャトスラフが受け継ぐことを見越して、民衆は民会にて断固としてオリガの側に立った。
イーゴリ・リューリコヴィチの在世中からオリガがすでに、国務の諸事において少なからず重要な役割を果たしていたために、それはなおさらそうであったのである。
オリガが最初に行ったことは、夫を殺したジェレヴリャーネ族に対する残酷な復讐であった。
946年の早春、イーゴリを殺したジェレヴリャーネ族の首長マル公は、オリガに求婚するためにキエフへ自分の家来たちをつかわした。
ジェレヴリャーネ族の慣習によれば、勝利者は殺した敵の権力、その妻、所有物すべてを相続したからである。
使者団はオリガをみくびって自分らの舟を「このままかつぎあげてキエフに入れよ」といきまいたが、入った途端に舟ごと深い穴に投げ込まれて、生き埋めにされた。
この最初の使者団に続いて、マルのところからやって来た二番目の使者団は、ヤマナラシの杭で扉を押さえられた蒸し風呂に閉じ込められ、
火を放たれて、生きながら蒸し焼きにされた。(挿絵左)
三番目の復讐は、オリガが従士団と共に、あたかも殺された夫の追善供養のためであるかのようにやって来た、コロステンの城壁の下で行われた。
和解を求めて、ジェレヴリャーネ族の住民たちは大量のアルコール入りのハチミツと様々なご馳走を持って来たが、オリガの従士らはなぜここにやって来たのかを理解しており、
彼らとは異なってあまり飲まなかった。年代記が伝えているところによると、オリガとその従士団は約五千人の地元の住民を惨殺してキエフに帰っていった。(挿絵右下)
この年、大軍を引き連れて、息子のスヴャトスラフと共にオリガは再びジェレヴリャーネ族の地へ向かった。
コロステンの住民らが町を引き渡すことを望まなかったので、オリガはその町をすっかり焼き払ってしまった。
住民の一部は捕虜になり、一部は殺され、また一部は貢物を徴収するために残された。この襲撃において、首長マルは捕らえられ処刑されたのである。
次回は「オリガの洗礼」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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