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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第9回 オリガの洗礼

旅するオリガ  オリガは自分の公邸を、キエフから北に18露里ほどいったドニエプル川の岸辺にあるヴィシゴロドに建てた。そこで暮らすことを彼女は選んだのである。それはおそらく、キエフにハザール国の代表機関が置かれていたこと、オリガが異教のイスラム教徒らと交わって、公国の体面を損ないたくなかったことと関係があったと思われる。

 公妃は高齢であったにもかかわらず、その統治の期間中、あらゆるところを歴訪した。また、統治初めに対外遠征を中止したことによって、彼女は民衆の好意を勝ち得ていた。その非凡な知性とエネルギーをもって、オリガは有効に機能する最初の公国管理システムを整えたといえる。イーゴリの在世中には常に任務があったヴァリャーグ人の傭兵部隊を、ビザンチンへ送り出すことによって彼らの扶養費を切りつめたのは彼女である。同じく彼女の統治中に、多くの時間と労力を要した巡回による貢物徴収は、代理人が一年中そこで貢物を受け取る貢物納入所に取って代えられた。

 通商面の外交関係を整える目的で、キエフ公妃はビザンチンを再三訪れた。957年にコンスタンチノープルでオリガを迎え入れたのは、皇帝コンスタンチン七世である。959年の夏、まさに同じ目的でオリガの使者団が、当時最も有力な西ヨーロッパの統治者であるドイツとイタリアの王、オットー一世のもとへ派遣された。ルーシと西ヨーロッパとの直接的な関係はここから始まった。

 オリガはルーシの最高権力者の中で、正教徒としての洗礼を受けた最初の人である。彼女はそれと同時に、ローマ皇帝として最初にキリスト者になったとされるコンスタンチン大帝(一世)の母親に敬意を表してエレーナという名を受けた。その洗礼の儀式が行われた時や場所に関する確定的な資料はない。ルーシの年代記によれば、それは955年にコンスタンチノープルで行われたとなっている。だが、ビザンチンの年代記では、オリガのコンスタンチノープル訪問はより遅い時期の957年とされており、その上、そこではただオリガという異教的な呼び名でもって呼ばれている。彼女は957年以降に、すでにその当時キリスト教団体と聖イリヤ教会があったキエフで洗礼を受け入れたとも考えられる。

 公妃の例にならって、ルーシの多くの為政者がキリスト教を受け入れたが、キエフのヴァリャーグ人の特権階級は執拗に抵抗した。オリガの息子スヴャトスラフはキリスト教の話を聞くことすら望まなかった。オリガは宗教的には孤立した環境の中におり、結局のところ息子へ権力を譲渡するよう強いられたのであるが、幾つかの史料はこの事件を961年から964年の間としている。

 年老いたオリガは自らの死を予感して、自分の墓の上で追善供養―異教的な埋葬の大酒宴―をなすことと、小山を築くことを禁じた。そして、自分をキリスト教の儀式によって埋葬するよう遺言し、コンスタンチノープルの総主教に自分の魂の追悼のためとして黄金を送った。

 969年、公妃オリガは永眠し、1007年に彼女の孫がその遺骨をキエフの十分の一教会に改葬した。その後、オリガは聖者の列に加えられることとなった。

次回は「遠征に明け暮れたスヴャトスラフ」。
乞うご期待!!

(大山・川西)


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