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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第10回 遠征に明け暮れたスヴャトスラフ(統治961-972)

リューリック朝系図  960年代の初め、夫の死後に最高権力者として君臨していた公妃オリガは、息子のスヴャトスラフに統治権を譲渡することを余儀なくされた。

 成年になったスヴャトスラフは、自分がキエフの公であることを自覚もせずに40年代にはノヴゴロドに居住していた。諸史料は、母親の助け手としても、独立した統治者としてもスヴャトスラフの国政への参与を何も伝えていない。その理由のひとつとして、スヴャトスラフの全生涯は戦闘や遠征に明け暮れる日々だった、という事実がある。

矢印→スヴャトスラフの遠征の経路 太線で囲まれた部分→古代ルーシ国家の国境  964年、スヴャトスラフは従士団と共にヴャチチ族のところへ舞い込んだ。この頃、ヴォルガ・オカ両河川域に分布するスラヴ諸族をめぐって、ハザール国と新興のキエフ・ルーシとの間で貢税争奪の争いがあり、ヴャチチ族は依然としてハザール国に貢物を納めていた。そのことを知った公は、とりあえずヴャチチ族をそのままにしておき、ドニエプル川沿いで越冬して夏にハザール国へ向けて進軍していった。彼はハザール人の軍隊を粉砕し、ヴャチチ族に貢物をキエフへ納めさせるようにした。ルーシ人がハザール国の首都イティル(現アストラハン)を占領した後、可汗(ハザール国の君主)はホレズムへ逃走することを余儀なくされた。一方、スヴャトスラフは、ドン川にあるハザール人の要塞サルケルを奪取した。この時期彼は、アゾフ海の入り口を制している、ヴァリャーグ人によって創設されたタマン半島の重要な要塞、マタルハを戦略的に占領した。ルーシ人がトムタラカニと名づけたこの要塞は、長らくこれら遠方の地における彼らの拠点となった。

 様々な年代記には、スヴャトスラフとその従士団の遠征中の日常生活が描かれている。「ヒョウのように軽やかに歩きまわり、多くのものたちと戦った。遠征に赴くときにも一つの荷車、一つの大なべも彼は持ってゆきはしなかった。しかし、馬肉や野鳥、あるいは牛肉を薄く切って、それを木炭で焼き、食べた。天幕を持っていなかったが、鞍を枕にして寝た」。

 あらゆることから判断するに、生活や行軍におけるスヴャトスラフの無欲さは、彼の生来の特徴であった。968年、ルーシの船団がドナウ川の河口に入り、スヴャトスラフとビザンチン皇帝ヨハネスI・ツィミスケスとの会談が行われた。その証人であったのは、キエフ公の容貌を書き残したビザンチンの歴史家ディアコノスだった。「…高すぎもせず、低すぎもしない中くらいの背丈、毛むくじゃらのまゆ、明るく青い瞳、しし鼻であごひげがない、上唇の上には濃く、長々しいひげがある。彼の頭は完全に禿げているが、横から髪の毛が一房たれていた――生まれの良さのしるしである。丈夫な後頭部と広い胸…。彼の衣服は白く、その清潔さの点のみで側近の者たちの衣服と異なっていた…。彼は側近の者たちと一緒に船を漕いでいた」。

 オリガが統治者の地位から最終的に身を引いた後、スヴャトスラフは二年もの間、絶え間ない戦闘と遠征の内に過ごした。その後、さらにバルカン半島においては諸々の戦争が引き起こされることになるが、それらの時と同様、スヴャトスラフの側には暫定的な同盟者やノルマン人部隊が味方となって戦った。公の従士団のみでは、それに義勇軍を含めたとしても兵力に限界があり、ビザンチン帝国と戦う力はなかったのである。

 次回は「スヴャトスラフ、首都移す!?」。乞うご期待!!

(大山・川西)


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