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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第101回 大公ヤロスラフ三世の死

メング・チムル汗  ノヴゴロドの人々によって追放された大公ヤロスラフ三世は、ウラジーミルにてノヴゴロド遠征の準備を開始した。一方、汗国のベルケの後継者であるメング-チムルのもとには自分が信頼した人間を差し向けた。そして、メング・チムルに対してはノヴゴロドとの衝突を、あたかもヤロスラフ三世が汗のために追加の貢税を徴収しようとしたのに物分りの悪いノヴゴロドの人々の抵抗にあった、というように報告した。汗の反応は、ヤロスラフ三世がまさに期待していた通りだった――ノヴゴロドに向けてタタールの部隊が進軍することとなったのである。ところが、ヤロスラフ三世の予期に反してノヴゴロド擁護に回ったのは、コストロマを治めている大公の弟ヴァシーリーであった。ノヴゴロドの使者団と共にヴァシーリーは汗国へ出立し、汗の前でノヴゴロドの人々の側のノヴゴロドの人々の側の正しさを明らかにし、ヤロスラフ三世の専横について述べた。メング・チムルはタタールの部隊を連れ戻すよう命令を下した。その間にノヴゴロドの地には付近のあらゆる土地から義勇軍が集まった。自身の軍隊を引き連れてノヴゴロドへ近づいたヤロスラフは、義勇軍から成るノヴゴロドの軍事力を見て、ルッサに退却し、和平を提案した。ノヴゴロドの人々は初めは和平を結ぶことを拒んでいたが、結局のところ、公と和解して、再び彼をノヴゴロドの公位に就けた。大公ヤロスラフ三世はノヴゴロドの町に代官を残すと、1270年の末にウラジーミルへ戻った。

 翌年、大公ヤロスラフ三世と弟のヴァシーリーは、甥であるペレヤスラヴリ-ザレスキーのドミートリー(アレクサンドル・ネフスキーの息子)と共に汗のもとへ出発した。年代記は彼らが汗国へ赴いた理由を記していないが、おそらく、この汗国訪問はノヴゴロドとの衝突と関係していたのであろう。彼らは汗国に長期滞在したが、その帰途にあった1272年、大公ヤロスラフ三世は逝去した。ヤロスラフ三世の遺体は、葬儀のためにトヴェーリにある聖コジマ-ダミアン教会に運ばれた。

リューリック朝系図

リューリック朝系図

 次回は「ヤロスラフ三世の弟ヴァシーリーとノヴゴロド」。乞うご期待!!

(大山・川西)

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