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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第11回 スヴャトスラフ、首都移す?!

スヴャトスラフとビザンチン皇帝ツィミスケスとの会談  公の従士団が遠征から帰還してしばらくすると、ビザンチンの皇帝ニケフォロス二世からの使者がキエフにやって来た。ビザンチンは、金1500フントで背後からブルガリアを襲ってくれるようスヴャトスラフへ頼みに来たのであった。

 968年の春、キエフの艦隊はドナウ川の河口へ入った。スヴャトスラフはブルガリアからドロストルを奪い取ることはできず、彼は占領した中で最も大きな町、ペレヤスラヴェツに自らの拠点を置いた。彼はそこに新しい公国を建設し、キエフからペレヤスラヴェツへ首都を移そうともくろんだのである。これは強力なルーシの軍隊がバルカンに出現することを意味したのであり、ビザンチンを不安に陥れた。ビザンチンはペチェネグ人を買収して彼らにキエフを包囲させた。これを聞いたスヴャトスラフは、母親と子供たちのいるキエフへ一時的に帰還し、ペチェネグ人を撃退した。

 その後、彼は、1000人編成のキエフの軍隊10個を引き連れて再びバルカンに向かった。今度はブルガリアを獲得することに成功し、加えてその首都であるプレスラフをも手に入れた。ブルガリアの皇帝ボリスは不利益な同盟へ強制的に加えさせられ、スヴャトスラフ自身はドロストルに居を構えたのである。

ビザンチン皇帝ニケフォロス二世  970年、スヴャトスラフはさらにブルガリア人、ペチェネグ人、ハンガリー人を自らの側に引き寄せ、ビザンチン帝国の国境へ押し入った。初めは順調に勝ち進んでいたが、ビザンチンの軍隊と最初の本格的な衝突が起こると、彼の連合軍は悲惨な敗北を喫し、ブルガリアへ退却することを余儀なくされた。ビザンチンは翌971年の春、スヴャトスラフの従士団が宿営していたドロストルを包囲した。この状況を利用してボリス皇帝がビザンチン側に走ると、ドロストルのブルガリア人の部隊もそれと同じような意向を示し始めた。彼らを威嚇するために、スヴャトスラフは自分と共に籠城しているブルガリア人の家族の中から300人を殺すよう命じたのだが、結果としてブルガリア人全体に反ルーシ行動が波及することとなり、ビザンチンと和平を結ばざるを得なくなったのである。

 故国への帰還にあたり、スヴャトスラフの従士団の中では意見が分かれた。経験豊かな司令官スヴェネルドは水路を行くことを拒み、従士団の一部を連れて冬が到来する前にキエフへたどり着いた。スヴャトスラフもドロストルを発ったが、おそらくビザンチンに対する晴らすすべもない鬱憤があったせいであろう、彼は道中、ルーシの全キリスト教徒を「殺す」と脅し、急使に正教の教会を焼き払う命令を持たせてキエフへ送った。これは、彼の従士団の一部をさらに失わしめることになった――キリスト教の兵士らはステップを通って独自にキエフへ向かったからである。

ペチェネグ人との戦闘で非業の最期を遂げるスヴャトスラフ  スヴャトスラフの従士団に煮え湯を飲まされたペレヤスラヴェツの住民たちは、その時にはすでにビザンチン側に回っていたペチェネグ人に、スヴャトスラフの軍隊の移動経路を告げた。ペチェネグ人に待ち伏せられたスヴャトスラフの従士団は、ドニエプル川の浅瀬を通り抜けられず、寒さと食糧の不足に耐えながらドニエプル川の潟で越冬するはめになった。翌972年の春、従士団は突破を試みたが、ペチェネグ人に皆殺しにされた。ペチェネグ人は遊牧民の慣習に従って、スヴャトスラフの頭蓋骨で酒杯を作ったという。

 次回は「ヤロポルクと弟たち」。乞うご期待!!

(大山・川西)


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