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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第111回 ミハイル(後のミハイル二世/統治1305-1317年)、トヴェーリ公となる

ミハイル公  大公ヤロスラフ三世の二度目の結婚における唯一の子供であるミハイルは、父親の死後数ヶ月してから誕生した。この年、ヤロスラフ三世の最初の結婚でできた二番目の息子で、彼とは腹違いの兄である同じくミハイルが死去した。これが原因で、幾つかの諸史料は間違って、大公ミハイル二世をヤロスラフ三世の二番目の息子と呼んでいる。

 ミハイルの父親は、トヴェーリの地の最初の独立公となった人物で、その後、同じ地位に彼の長男スヴャトスラフが就き、さらにそのスヴャトスラフが亡くなった後、およそ1282年から1286年の間、ミハイルがトヴェーリ公となった。1286年、若き14歳の公は、近隣の諸土地から召集した従士団と共に、トヴェーリの幾つかの郷を破壊していたリトアニア人を撃退しなければならなかった。1288年、ミハイルは何らかの理由があって、他の諸公と同じく、大公ドミートリーに従うことを望まなかった。さらにミハイルは、ドミートリーとアンドレイの戦いにおいてアンドレイの側に立った。このため、大公ドミートリーはトヴェーリ遠征のための口実を得、トヴェーリの幾つかの郷を破壊したが、しかし、トヴェーリの中心地まではたどり着けなかった。ミハイルは軍隊を引き連れて大公に向かって出てゆき、1289年の初めに双方は交渉に入った。数日後、和平が結ばれた。休戦の条件は明らかになっていないが、おそらく、ミハイルは大公ドミートリーの権力を認め、ドミートリーは自分の軍隊をトヴェーリの地から撤退させたと考えられる。

現在のトヴェーリ  このミハイルがキプチャク汗国を最初に訪れたのは、1293年頃とされている。諸史料は訪問の目的を明らかにしていないが、それに続く出来事から推察するに、ミハイルはトフタ汗のもとでトヴェーリ公国の勅書を手にしたと思われる。この年、大公国をめぐるドミートリーとアンドレイの戦いが最終段階を迎え、新大公アンドレイ三世はスーズダリの地へタタールの大軍を導き入れた。14の都市と数多くの小さな定住地が破壊され、荒廃させられたが、トヴェーリにはタタールの軍隊は進軍しなかった。おそらく、ミハイルがトフタ汗から正式に勅書を受け取っていたことをタタールの軍司令官らも知っていたのであろう。しかも、トヴェーリの地には破壊された方々の諸土地から逃れてきた避難者が溢れかえっており、彼らが最後の一人となるまでタタール人と戦うことを誓っていることを、彼らはよく分かっていたにちがいない。

 次回は「ミハイルの人柄とその家族」。乞うご期待!!

(大山・川西)

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