◆ 第12回 ヤロポルク(統治972-980)と弟たち
スヴャトスラフには三人の息子がいた。古代ルーシの異教徒の公は通常、幾人かの女性を有しており、この息子たちも互いに異なる母親から生まれた。残念ながら年代記には、末息子ウラジーミルの母親――マルシャ(マクルシャ)、この女性は公妃オリガの食糧管理係でスヴャトスラフの妾であった――しか言及されていない。
スヴャトスラフはペレヤスラヴェツに新たな首都を築くという野望に燃え、ドロストルに居を構えていた間、年長の息子ヤロポルクをキエフに、オレーグをジェレヴリャーネ族の地のオブルチに、末のウラジーミルをノヴゴロドに送り、地方の部族の公を自分の息子たちに取って替えた。このことによってスラヴの地を国家へ統一する最初の一歩が踏み出されたのであり、その後、キエフの支配下にある土地は、キエフ大公(Великий князь)によって任命された分領公が治めることとなった。「大…(Великий)」というのは、年長の、あるいは他の分領地の諸公と比べて重要な、という意味がある。
ヤロポルクにキエフがゆだねられた時、彼はまだ11歳の少年であった。父親のスヴャトスラフは、信頼していた老軍司令官スヴェネルドを息子の側近に置いた。すべてのことからかんがみて、この軍司令官がヤロポルク付の助言者であったのは最初の時期だけで、その後、彼はバルカンの地で戦っていたスヴャトスラフのもとへ去り、陸路を経て971年の晩秋にキエフへ戻ってきた。
ヤロポルクの統治時代に関する記録は、ほとんど何も残されていない。
スヴャトスラフはヤロポルクに妻を授けた。ある遠征時に捕え聖職位を剥奪したギリシアの修道女を、スヴャトスラフは一時期自分の妾としていたが、その後ヤロポルクの妻とした。
兄弟たちはそれぞれの分領地を治め、平和に暮らしていた。ある時、軍司令官スヴェネルドの息子リュトが、オレーグの統治する森で狩をしている最中に不慮の死を遂げた。何人かの年代記作者は、これはオレーグの手になる仕業とみなしている。そうだとすれば、これはオレーグとリュトの個人的な関係の土壌にて起こったこととなる。だがスヴェネルドは、自分の息子の死の復讐をなすよう大公ヤロポルクを説得することに成功した。ヤロポルクは軍勢を率いてジェレヴャーネ族の地へ向かい、オレーグは戦闘で無惨に亡くなった。
末弟のノヴゴロド公ウラジーミルは、オレーグの死に対する復讐をなすことを誓って、ヴァリャーグの部隊を雇うためにスカンジナヴィアへ去った。980年、ウラジーミルの北の従士団はキエフを占領した。ヤロポルクはルーシの南方へ逃げ、ロシ川の河口にある小さな町ロドニに隠れた。幾つかの史料は、ウラジーミルがヤロポルクの居場所を知ったのは、ヤロポルクの新しい軍司令官ブルドからであると、伝えている。ロドニを包囲したウラジーミルは、和平を結ぶかのように偽って見せかけてヤロポルクをおびき寄せ、二人のヴァリャーグ人に剣で刺し殺させたのであった。
次回は「奴隷の子ウラジーミル(統治980-1015)」。
乞うご期待!!
(大山・川西)
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