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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第13回 奴隷の子ウラジーミル(統治980-1015)

ウラジーミル  969年にキエフ公スヴャトスラフが諸都市の統治に自分の息子たちを割りふったとき、末息子のウラジーミルにはノヴゴロドが与えられた。少年はまだ10歳にも達しておらず、スヴャトスラフの信頼を受けた者たちが彼と共に出立したが、その中に、後にウラジーミルの最たる助言者、援助者となるウラジーミルの母方の叔父、ドブルィニャがいた。

 ウラジーミルの母親は、ドニエプル川沿いのリューベチという町の平民であったマルコの娘、マルーシャであった。多くの歴史家たちはこのマルコを、公妃オリガが自分の夫の復讐のために死刑に処した、ジェレヴリャーネ族の公マルと同一視している。オリガはマルの子供らを自分の屋敷に捕えていったのであり、成人したマルーシャは公妃の信頼を得て食糧管理係となった。やがてマルーシャはスヴャトスラフの妾となったが、オリガはキエフ公国の後継者である息子が、自分の食料管理係で実質的には捕虜である人間と同居生活するのを許さず、マルーシャをある村落へ送ってしまった。そこで彼女は960年以降に、ウラジーミルと名づけられた少年を生んだ。彼はその後、「奴隷の子」と呼ばれながら、低い出自のために長い間不遇をかこつこととなった。

 ヤロポルクとオレーグの間で起こった内乱の結果、オレーグが非業の死を遂げた。ウラジーミルはオレーグの死に対して、兄ヤロポルクに復讐をなすという誓いを立てた。しかしながら、ウラジーミルはドブルィニャと共に977年に北方へ去り、そこで遠縁であるヴァリャーグ人のオラフ・ツルグヴァソンに迎え入れられた。

 自らの誓いを思い出したウラジーミルはその二年後に、ヴァリャーグ人の従士団を引き連れてルーシへ戻り、キエフに向かった。その道中、ポロツクを攻落し、そこの公ログヴォロドと彼の二人の息子を殺すと、ウラジーミルはログヴォロドの娘、ログネダを力ずくで自分の妻とした。ログネダは、「奴隷の息子の履物をとるのは嫌です」とウラジーミルの求婚を断り、「ヤロポルクに嫁ぎたい」と言い放った女であった。

 980年、ウラジーミルの軍隊はキエフを占領した。ヤロポルクは敗走を余儀なくされ、自分の軍司令官ブルドの裏切りによってウラジーミル側のヴァリャーグ人に刺し殺された。異教徒のウラジーミルはログネダをめとったばかりだったにもかかわらず、ヤロポルクの妊娠中の未亡人をもさらに自分の妻とした。

異教的儀式(想像図)  新しいキエフ大公が行った最初の事は、異教の神々を称揚することだった。ウラジーミルは、自分の館近くの丘に、主要な異教の神々の木像を置くように命じた。スラヴ人の中の異教徒たちは、ウラジーミルのこの行動に活気づけられた。というのは、彼らは、一夫多妻婚禁止のキリスト教にひどく憤慨していたからである。

偶像(異教のルーシ)ニコライ・コンスタンチノビッチ・リョーリフ 1910年  まさにウラジーミル公自身が、肉欲的な生活様式を好んでいた。彼は、「ルーシ人は愉快に食べ、飲む――これなしでは生きられない」と述べている。『原初年代記』の中では、ウラジーミルのとどめようのない女好きが指摘されている。ログネダとヤロポルクの未亡人の後、彼はさらに三度結婚し、近隣の諸都市に約800人の妾を抱えていたという。


 次回は「ウラジーミルの病と改宗」。乞うご期待!!

(大山・川西)


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