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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第14回 ウラジーミルの病と改宗

キエフにあるウラジーミル大公像

 女好きのウラジーミルは、国務も忘れはしなかった。ペチェネグ人からの常なる脅威に備えて、彼はルーシの南の国境に新たな要塞を建設し、そこに守備隊を置くためにスラヴ人の諸土地から最も優れた兵士を集めた。また、981年、ガーリチ公国の一部でありポーランドに従属していた町、チェルヴェニとペレムイシュリを、ルーシに併合した。983年には、北方へ流れるネマン川とブーク川、ヴィスワ川に沿った河川路をめぐって、リトアニアのヤトヴャ―グ族と交戦した。                                                                                                                                                             985年、平和通商条約を結ぶために、ヴォルガ川沿いのヴォルガル族に対する遠征があった。それらに加えてウラジーミルは、ヴャチチ族とラヂミチ族を服従させ、ペチェネグ族を首尾良く撃退した。

 ビザンチン帝国は当時、内政的な安定性と財政的な強大さを有し、巧みな外交を行うモデル国家としてあった。同国は近隣諸国にキリスト教を広め、まさにそのことによって国々を自らの勢力圏の中に引き入れていた。東方正教会の洗礼を受けるということは、政治的にではないにせよ、必然的に教会的な従属関係に入ることを意味していたので、キエフ公国の諸公は新たな宗教へ決定的な第一歩を踏み出すことをためらっていた。

軍装のバシレイオス二世

 この強大な隣国であるビザンチン帝国との関係は、スヴャトスラフの時代以来、いまだ極めて冷淡なままであった。しかしながら、ヴァルダス・フォカス(ビザンチンの名門貴族)の反乱に手を焼いたビザンチン皇帝は、ウラジーミルに軍事援助を求めざるを得ず、987年の秋にバシレイオス二世の使者団がキエフにやってきた。ウラジーミルは6000の精兵を送ることに同意したが、その代わりにバシレイオス二世の妹のアンナを妻にくれるよう求めた。ウラジーミルの大胆さは、露骨な図々しさと紙一重だった。これまで一度も皇女が“野蛮な”民族の統治者のもとへ嫁いだことはなかったし、オットー大帝も「自分の息子の嫁に皇女アンナを」と望んだが、その要望すら拒まれていたのである。悩んだ末、ビザンチン皇帝は妹をキエフ公国へ嫁がせることに同意したが、ウラジーミルが聖なる洗礼を受けるならば、という条件付であった。今度はウラジーミルが考え込む番だった。幾つかの史料によれば、ウラジーミルはその頃目の病をわずらい、ほぼ失明状態に陥っていた。そのため彼はひどく苦しんでいたが、このことが洗礼を受ける決意を最終的にうながすことになった。皇女アンナは、もし彼が聖なる洗礼の儀式を受けるならば目が治癒するだろうと公に伝えよ、と命じたという。ウラジーミルは儀式を受け、目が見えるようになった。

軍装のバシレイオス二世

 ウラジーミルがいつ、どこで洗礼を受け、洗礼名ヴァシーリィを得たのかは明らかではない。諸史料は、キエフとコルスニ(ビザンチンの要塞都市、現ヘルソネス)の地名を挙げている。時期は、987年の末から988年にかけてである。しかし、修道士ヤコフ・ムニフの『頌詞』では、ウラジーミルは990年に洗礼を受けた、とされている。ウラジーミルが二度に渡って儀式を受けたことは、十分に考えられることである。最初はどのような布告もなしに個人的にとり行われ、後には、ウラジーミルが占領したコルスニで、ビザンチンから提示された約束を果たすためだけに、広く告げ知らされて二度目の儀式がとり行われたのであろう。

 次回は「ルーシの洗礼」。乞うご期待!!

(大山・川西)


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