
◆ 第141回 イヴァン、破壊と略奪から国を守る
1326年9月、ウズベク汗は汗国で大公ドミートリーを処刑し、大公国勅書を彼の弟であるトヴェーリ公アレクサンドルに渡した。イヴァンはこの時、同じく汗国で勅書を得ようと奔走していた。しかし、彼の兄ユーリーは汗に対して重大な過失を犯して殺害されたのであり、ウズベク汗はそのことを考慮に入れて、モスクワよりもトヴェーリの方を選んだということは十分考えられた。その上、トヴェーリの諸公がミハイル二世の時代以降、汗国に対してどのようなわずらわしいことも為してこなかったのも事実であった。
しかしながらその後、ミハイル二世時代から続くトヴェーリとの抗争に勝利し、トヴェーリに復讐する機会がモスクワ公イヴァンに訪れた。
1327年の秋、トヴェーリで汗の使者チョル汗に対する暴動が起こった。トヴェーリの人々は町に駐屯していたタタール兵を皆殺しにした上、ウズベク汗のいとこであるチョル汗をも殺してしまったのである。この事件時、大公アレクサンドルは町中にいたのであり、汗国側からの懲罰は避けられないものとなった。しかも、汗国皇族の殺害は、トヴェーリばかりでなく、全ルーシを襲う大規模な懲罰軍の襲来につながる恐れがあった。この知らせを聞いて、ウズベク汗は烈火の如く怒ったと言われている。
この時イヴァンは直ちに汗国へ駆けつけたが、彼が自らの意志で赴いたのか、ウズベク汗自身が彼を呼び出したのかは、確実な史料がない。いずれにせよ、イヴァンは汗国で万一のことがあった場合に備えて、出立する前に土地の分与を含む遺言書を作成した。汗国でイヴァンは目覚ましい働きをする。彼は、汗の怒りがトヴェーリ公国一国に集中するよう巧みに誘導し、その結果、1237年から1238年の冬にかけて懲罰隊がトヴェーリに向かって進軍することとなった。それは、50000人のタタール人、モスクワの連隊、従士団を引き連れたスーズダリのアレサンドル公から成っていた。この遠征の全指揮を、ウズベク汗はモスクワ公イヴァンに委ねた。
イヴァンは、昔からのライバルを打ちのめすこの機会を逃さず、大公アレクサンドルは自分の領土を捨てて公妃と子供たちを連れてプスコフへ逃亡した。トヴェーリ公国は完全に破壊され、住民は殺されるか、あるいは捕虜として連れ去られるかした。懲罰軍が去った後、アレクサンドルの弟のコンスタンチン公やヴァシーリー公が家臣らと共にトヴェーリへやって来たが、その地のあまりの荒廃ぶりに大いに嘆き悲しみ、脱力してしまったという。
当然ながら、イヴァンの領地にはタタール兵は侵入せず、またノヴゴロドにもタタール兵は近づかなかった。ノヴゴロドは、汗や高官らへの莫大な代償金と多くの贈り物によって破壊から免れることとなった。
次回は「モスクワ公イヴァン、大公への道」。乞うご期待!!
挿絵:イヴァン公が治めていた頃のモスクワ
the-submarine.ru/cat/t1588/
(文:大山・川西)
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