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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第152回 敵対するモスクワ

 ドミートリー三世の家族に関する史料はほとんど残されていない。最初の妻の名はアンナといった。二番目の妻の名はヴァシリーサであり、これはロストフの公の娘であった。いくつかの年代記は、大公の五人の息子の内、三人の名前――ヴァシーリー、セミョン、イヴァン――と、二人の娘の名前――ソフィヤ、エヴドキア――に言及している。

 大公国統治の諸々の事柄にまで、ドミートリー三世の手は回らなかった。それまで官僚として最上の地位を占めてきたモスクワの貴族たちは、その立場を譲るつもりは毛頭なかった。彼らは1361年には、自分たちの公が大公位を継承する正当な権利があることを証明するために、汗国へ出立した。この時、ドミートリー三世はあえて汗国には赴かなかった。というのも、汗国では当時非常に大きな動乱が起こり、汗たちが次々に殺されていたからである。案の定、出立したモスクワの代表団はその後、汗国から逃走する羽目になった。1362年には汗たちの殺戮は止んだが、汗国は二つに分裂してしまった。サライ‐バトゥを治めるようになったのはムラト汗であり、ヴォルガの右岸には、権威あるキプチャク汗国の万人隊長ママイが擁立したアブドゥラフ汗がいた。

 モスクワの人々にはムラト派の方が強い力を持つと思われたので、同年の1362年、彼らの代表団がサライへと向かった。ドミートリー三世も同じくサライへ自身の使者らを遣わした。かくも頻繁な汗の交代劇のおかげで、この時はすでに、汗国におけるルーシ諸公に対する戦略といったものは皆無だったのであろう。必要なのは財力であり、モスクワの貴族らはドミートリー三世より多くのお金を所持していたと思われる。ウラジーミル大公国の勅書を手にしたのは、モスクワの年少のドミートリーであった。

 ドミートリー三世は、彼にとっては息子ぐらいの歳にあたるモスクワ公に大公位を譲るつもりはなかった。彼は、即位の儀式のためにモスクワ公がウラジーミルを通過するのを妨げようとしてペレヤスラヴリ‐ザレスキーに陣取ったが、すぐにモスクワの軍隊がその地に向けて出動してきた。ドミートリー三世はモスクワとの会戦に踏み切れず、最初はウラジーミルへ、その後自らの世襲領地であるスーズダリへ去った。1363年の一月初旬、モスクワのドミートリーはウラジーミルで大公位に即位し、ドミートリー四世となった。しかしながら、汗国にほぼ互角の力で敵対し合っている二人の汗が存在していることは、ルーシの権力の頂点をめぐっても紛争が続くことを意味した。

 次回は「弟ボリスとの対立」。乞うご期待!!

リューリック朝系図

(文:大山・川西)

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