◆ 第16回 ウラジーミルの息子たち
父親にならって、ウラジーミルは自分の支配下にある諸土地を、息子たちの助けを借りて統治していた。息子たちはそれぞれの地の公に代わって、重要な町を治めた。大公の従士団の一部と共に、町には税の徴収に従事する長官が任命された。近隣諸国との争いは990年以後徐々になくなっていたが、息子たちは絶え間ないペチェネグ人の来襲を撃退しなければならなかった。
諸史料では、ウラジーミルの子供たちの内、12人の息子と2人の娘に言及されている(系図参照)。ウラジーミルが亡くなった時にはすでに、ヴィシェスラフとイジャスラフは世を去っていた。スヴャトポルクはウラジーミルの養子になった、前大公ヤロポルクの息子である。ヴィシェスラフ、イジャスラフ、フセヴォロド、ヤロスラフ(後の大公)、娘のプレドスラヴァとドブログネヴァは、ログネダの子である。ボリスとグレープは、アンナ(幾つかの史料によれば、ウラジーミルの別の妻であるヴォルガル出身のアンナ)の子である。序列上の優位にしたがって、史料は兄弟たちを次の順番で挙げている――スヴャトポルク、ヴィシェスラフ、イジャスラフ、ヤロスラフと。
1007年、大公は自分の祖母であり、ルーシにおける最初の女統治者となった公妃オリガの遺骨を、十分の一税教会へ運んで移した。四年後、そこには彼の妻のアンナが葬られた。彼女の死後、ウラジーミルは、オットー大帝の孫であり、エニンゲン伯クーノの末娘と結婚した。
ウラジーミルの統治の晩年は平穏なものではなかった。彼の最も愛していた息子ボリスが、大公のほぼ正式な継承者であろうと皆がみなしていた。だが、いうまでもなく、彼の兄たちはそれに賛同できなかった。1013年、スヴャトポルクが治めていたトゥーロフで、大公に対する謀反がキエフの有力者たちによって暴かれた。謀反の扇動者は、スヴャトポルクの妻に連れられてポーランドから来たカトリック司教のレインベルンであった。幽閉されたレインベルンは、その後獄中で亡くなり、一方、悔いたスヴャトポルクは、キエフ近くの町のヴィシゴロドを統治するよう送られた。
翌年、ヤロスラフが、父からの独立を決意し、手始めに貢税と教会の十分の一税をキエフへ送るのを停止した。ウラジーミルは従士団に遠征の準備をなすよう命令し、ノヴゴロドまでの道中は「橋が丸太で張られ、丸太や小枝で道が敷かれた」。当面のペチェネグ人の来襲を撃退するようボリスが差し向けられ、ウラジーミル自身は出立の準備に取りかかろうとしていた。しかし、彼の健康は、以前からの重い病気ですでに損なわれていた。1015年7月15日、ウラジーミル一世は、スパスべレストフ村にある自分の邸宅で息を引き取ったのである。
時間に打ち勝とうと試みたウラジーミルの側近たちは、大公が死んだ事実を隠し、急使をボリスのもとへ遣わした。しかし、ウラジーミルの周囲には、彼の養子であるスヴャトポルクの支持者もいた。ヤロスラフは遠いノヴゴロドにおり、ボリスは彼がペチェネグ人と戦闘しているステップの中で探し出さなければならなかったため、近傍のヴィシゴロドにいたスヴャトポルクに、時間が有利に働いた。父親の死の知らせを受け取ると、スヴャトポルクはすぐにキエフへ向かい、無断で自分の手に統治の実権を握った。キエフの人々はまだ大公の死を知らず、その間にスヴャトポルクによって、ウラジーミルの遺体はキエフへ運ばれた。民衆の悲しみと当惑は際限がなかった。大公に最後の別れを告げようと、首都やその周辺の数多くの住民が十分の一税教会へやって来た。
次回は「神に見放されたスヴャトポルク」。乞うご期待!!
(大山・川西)
HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第16回
|