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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第17回 神に見放されたスヴャトポルク(統治1015-1019年)

ボリスとグレープ

 1015年、前大公ウラジーミルが亡くなった後、キエフ公位を実際に要求することができたのは、彼の息子たちの内、三人だけだった。ウラジーミルの最初の妻が生んだ子供たちの中で、生き残った最年長の者であるヤロスラフ。キリスト教的婚姻によってウラジーミルと結ばれた公妃アンナが生んだ、ボリスとグレープ。養子であったスヴャトポルクは公位に対する正当な権利すら持っていなかったが、兄弟の中では最年長であり、リューリック一族における年長制という切り札があった。

 ウラジーミルが亡くなった時、真っ先にキエフへ駆けつけたスヴャトポルクは、高価な贈物や公約によってキエフの住民を自分の味方につけた。そして彼は、公位要求者を全員滅ぼしてしまおうと短絡的に決意したのである。

 その頃、故ウラジーミルの側近らが派遣した急使がボリスを見つけ出そうと、アルタ川沿いのステップで彼の部隊を探していた。当のボリスは襲撃してきたペチェネグ人の部隊を発見できず、引き返そうとしているところだった。ボリスは、自分の従士団を率いてキエフへゆくことを拒んだ。というのは、彼は、亡くなった父親が公には自分を後継者として宣言しなかったことを知っており、同時に、スヴャトポルクに一族の中での序列上の優位があることを理解していたからである。先にキエフへ自分の従士団を送り、手元には若干の護衛兵と側近を残したボリスは、しばらくステップにとどまることを決めた。だが、こうした状況はスヴャトポルクを満足させなかった。彼はキエフから少し離れたヴィシゴロドで、ヴァリャーグ人からなる部隊をすばやく編成し、その部隊にボリスを殺すよう命じてステッブへ差し向けた。部隊がやって来る頃にはボリスもすでに兄の意図を感づいていたが、わずかな側近だけでは抵抗することができなかった。あるいは、兄が兄弟殺しに踏み切るとは、彼には信じられなかったのかもしれない。1015年7月25日の夜中、殺人者はボリスのベッドが置かれたテントの幕を通して外から剣で突き刺し、ボリスの体をテントでくるみ、それをスヴャトポルクのところへ運んでいった。ヴィシゴロドに着いた時点でボリスにはまだ息があったが、スヴャトポルクの命令によりヴァリャーグ人が彼にとどめを刺した。

スヴャトポルクが暗殺者を差し向ける  ボリス殺害
(左)スヴャトポルクが暗殺者を差し向ける  (右)ボリス殺害

 ボリスの弟であるムーロム公グレープは、今や唯一の法的に正当な後継者であった。残りの息子たちすべては異教の結婚で生まれた者たちであり、スヴャトポルクの後にしか公位を要求することができなかったからである。ムーロムからグレープをおびき出す必要があったので、スヴャトポルクは父親が重病だという知らせを持たせて急使をそこへ送った。少しも疑わなかったグレープは、わずかの従士団を連れて、川の水路を通ってキエフへ向かった。スモレンスク近くで彼はヤロスラフから、父親の死と、ボリスが殺害されたという情報を受け取った。岸に近づきながら、グレープは従士団と共に今後のことを協議し始めた。そこへ彼らを見つけ出したスヴャトポルクの部隊が向かってきた。部隊はグレープの従士団を皆殺しにし、グレープのコックにグレープをナイフで殺すよう強いた。

 兄弟殺しの衝撃は全ルーシを走り、民衆はスヴャトポルクに、「神に見放された者」というあだ名をつけたのである。

 次回は「敗走するスヴャトポルク」。乞うご期待!!

(大山・川西)


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