特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第18回 敗走するスヴャトポルク

ボリスとグレープ(14世紀のイコンから)

 スヴャトポルクは、ボリスとグレープ以外の他の兄弟らの命をも狙っていたかもしれない。しかし、すでにノヴゴロド公ヤロスラフが4万の軍勢を引き連れて、キエフへ進軍していた。スヴャトポルクは、従士団と自ら雇ったペチェネグ人の騎兵隊と共に、ヤロスラフへ向かって出て行った。1016年の初冬に行われた、ドニエプル川沿いのリュべチの町での戦闘は、大公スヴャトポルクのポーランドへの逃走で幕を閉じた。翌年、彼はペチェネグ人を再度雇い、その軍隊を率いてキエフを攻撃したが、その頃にはすでにヤロスラフの味方についていた住民らによって撃退された。

 キエフから逃げ出したスヴャトポルクは、自分の舅であるポーランドの「勇敢王」、ボレスワフ一世を同盟者に招き入れた。1018年、ポーランド人は、ヤロスラフの従士団を国境付近のブグ川の岸辺で撃破し、キエフを占領した。ボレスワフ一世は、約束されていた南西のルーシの地を援助の代償として受け取ったが、ポーランド人の守備隊はキエフや他の諸都市で我が物顔に振舞うようになり、住民の財産を着服し始めた。それに対抗して、住民たちも武器を手に取り始めた。このような新展開を見てスヴャトポルクは、住民たちがポーランド人に対して反抗するよう徐々に仕向けた――権力をつなぎとめる術が、彼にはもうそれ以外なかったのである。ポーランド人がいたるところで歯向かう住民たちから攻撃され始めると、ボレスワフ一世はルーシの地を見放す良い時期だとみなした。その際、ポーランド人は徹底的に町を略奪し、多くの捕虜を連れて故国へ帰っていった。それらの捕虜の中にはヤロスラフの二人の姉妹がおり、ボレスワフ一世は二人の内の一方のプレドスラヴァに以前求婚したことがあったが、断られていた。王は彼女を自分の妾にしてしまった。

ボレスワフ一世

 この頃、ヤロスラフはすでにノヴゴロドから新たな軍勢を引き連れて、キエフへ向かっていた。キエフのスヴャトポルクのところにはもう援軍はおらず、住民たちはポーランド人が犯した強奪のことでスヴャトポルクを許さなかった。それゆえ、スヴャトポルクは再びペチェネグ人のところに助けを求めに行く以外、道はなかった。アルタ川岸辺での戦いはヤロスラフの完全な勝利で終わり、1019年、ヤロスラフはキエフへ入った。

 スヴャトポルクはすでによく知っている経路を辿ってポーランドへ向かった。ブレストを通り過ぎて部隊は休憩のために立ち止まったが、スヴャトポルクの心理状態は限界に達していた。つきまとう躁病が彼を苦しめた。部隊は、スヴャトポルクの叫び声にせき立てられて、ポーランドの領土内を最速の速さで進んだ。ほら、追ってくるぞ、おお、追ってくるぞ、走れ!――その後、力尽きたスヴャトポルクは担架に寝かせられたが、追撃される強迫観念に苦しめられ続け、担架の上からも途切れることなくうわ言を発した。1020年、年代記作者らによれば、どこでだかは分からないが、ある場所でスヴャトポルクは息を引き取ったのであり、その時初めて、この狂気の逃走には終止符が打たれたのである。

次回はブレイクタイムです♪「ロシア正教とは?」。
乞うご期待!!

(大山・川西)


HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第18回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
НПО Канагавское общество "Япония-страны Евразии"

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.