◆ 第51回 ユーリーと息子たち
慣習に従って、ユーリーは自ら支配する諸土地を息子たちの助けを借りて統治した。この息子たちの中には、三人の未来の大公――アンドレイ、ミハイル、フセヴォロド――がいた。彼は娘のオリガとエレーナを、同盟者であるガーリチ公とチェルニーゴフ公に嫁がせた。ユーリーは二度結婚し、二番目の妻はギリシア生まれであった。彼の死後、11人の息子と2人の娘が残された。
ユーリーは、高名な父親であるモノマフの徳高い性質も、司令官としての秀でた軍事能力も受け継いでいなかったようである。ユーリーが参戦した大小12の戦役の内、成功を収めたのは3つのみである。しかし、彼が有していた高度な政治的決断力、優れた外交手腕を認めないわけにはいかない。これらの素質は、ユーリーが南ルーシと大公位を獲得する際の戦いにおいて、十分に発揮されることとなった。
ユーリーが南ルーシの確立に着手し始めたのは、腹違いの兄である大公ヤロポルク二世が、キエフから近いペレヤスラヴリを自分の息子にではなく、実の兄である故ムスチスラフ一世の長男、フセヴォロドに与えた1132年と前後する。これは、公式に言明されなかったとはいえ、ヤロポルク二世の没後にフセヴォロドがキエフ公位に就く可能性があることを意味した。弟のアンドレイを同盟者として招いたユーリーは、ペレヤスラヴリからフセヴォロドを追い出してしまった。大公ヤロポルク二世は軍事力を行使しようとはしなかったが、ペレヤスラヴリから立ち去るようユーリーを説得し、彼にペレヤスラヴリの土地のわずかな部分を分け与えた。しばらくして、ユーリーは大公にロストフとスーズダリを譲り渡したが、その引き換えにペレヤスラヴリを得た。加えて、ユーリーはスーズダリ公国のかなりの領域から税金を徴収する権利を保持し続けた。彼がイニシアチブをとった1134年の土地の再分割では、ユーリーをはじめとするモノマフの子らが甥であるムスチスラフの子たちを犠牲にして、いちじるしく領土を拡大することとなったのである。
その結果、前大公ムスチスラフの息子たちは、同盟者を探し出して武器を手に取る羽目となった。この内紛の後、ユーリーは1135年に再びスーズダリへ戻っていった。
諸公間の内乱に乗じて、ノヴゴロドの人々はムスチスラフの息子フセヴォロドを、さらにチェルニーゴフのスヴャトスラフを追放すると、大公ヤロポルク二世をさしおいて、ユーリーを自分たちの公として招致した。無論のこと、ユーリーはこの申入れを受け入れ、1138年5月にノヴゴロドへ自分の長男であるロスチスラフを差し向けた。大公ヤロポルク二世の死後、ヤロスラフ賢公のひ孫であるチェルニーゴフのフセヴォロド(スヴャトスラフの兄)が、故ヤロポルク二世の弟ヴャチェスラフから力ずくでキエフ公位を奪取すると、ユーリーはキエフ遠征のための同盟者を探し始めた。開戦の大義名分はあった。フセヴォロドによってキエフから追放されたヴャチェスラフは、ユーリーの腹違いの兄であり、いうまでもなく一族の最年長者であったからである。
次回は「モスクワの由来」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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