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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第71回 ユーリーとコンスタンチンとの間の継承者争い

ユーリー二世

 亡くなる数ヶ月前に、重病の大公フセヴォロド三世は、四番目の息子ユーリーを公位継承者として宣言した。これは、長男コンスタンチンが首都をウラジーミルからロストフへ移すことを提案したが、それに大公は同意できなかったため、彼を除外して行われたものであった。数多くの都市と郷からウラジーミルに集まった、住民の上層階級の代表者らがフセヴォロド三世の指名を支持し、ユーリーに忠誠を誓った。父親の死後、1212年にユーリーはウラジーミル大公位に就き、ユーリー二世となった。

 しかしながら、大公位に就きながらも、ユーリーは安らぎを感じることができなかった。彼は単に亡くなった父の意向にしたがって統治していたに過ぎないが、ロストフを治め続けていたコンスタンチンには、一族の最年長者が最高権力を得るという昔からの権利が歴然としてあった。こうして兄弟間の争いが、すでに父親の死後一年目から始まった。コンスタンチンはウラジーミルを占領するという自らの野望を隠そうともしなかった。ユーリー二世は1212年と1213年の二回、従士団と共にロストフへ先んじて遠征し、その間は休戦条約が結ばれることはなかった。1215年、彼らの弟ヤロスラフとノヴゴロドの人々との間に衝突が起こった。ユーリー二世は弟ヤロスラフを守るために立ち上がり、一方、コンスタンチンはノヴゴロドと、同地を1214年まで治めていたムスチスラフの側に立った。1216年、リピツァ川の岸辺での会戦で、ユーリー二世とヤロスラフの軍隊は撃滅させられた。その結果、ユーリー二世は首都ウラジーミルから立ち去ることを余儀なくさせられ、新大公コンスンタンチンの意向により、彼は最初にまず、ヴォルガ河畔にあるラジロフ・ゴロジェツへ、その後スーズダリへと去った。ユーリー二世と共にウラジーミルから立ち去ったのは、彼の最も親しい側近と、彼の妻、それに彼らの息子フセヴォロドであった。

ヴォルガ川

 1218年にコンスタンチンが亡くなった後、ユーリー二世は一族の年長制の権利に従って、再び大公位に就いた。その後1223年までは、年代記作者の注意を引くような例外的な事件は何一つ起こらなかった。大公は弟スヴャトスラフの助けを借りて、ヴォルガ・ボルガル人と戦い、自身の陣地を強化するために、オカ川とヴォルガ川の合流地点に新しい町―ニージニー・ノヴゴロドを1221年に築いた。

 さらにノヴゴロドの人々の依頼によって、大公は1222年に息子のフセヴォロドをノヴゴロドへ公として派遣したが、フセヴォロドはノヴゴロドの人々と仲良く折り合うことができず、ひそかにノヴゴロドを後にすると、ユーリー二世はそこの統治を自分の兄弟たちの裁量に委ねた。

 次回は「モンゴル人の最初の襲来」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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