◆ 第81回 ヤロスラフ二世、汗国へ
1243年、バトゥ汗の要求により、ヤロスラフ二世はサライ-バトゥへ出発した。彼はその地で十分な敬意をもって迎えられた、あるいは当時の言い方によれば、「大いなる尊敬をもって」迎えられた。そして何の支障もなく、北ルーシばかりでなく南ルーシをも治めるための勅書を手にした。1245年、ヤロスラフは再びキプチャク汗国へ呼び出された。この頃、広大なモンゴル帝国は四つのウルス(所領)に細分化しており、それらのウルスの中でも重要な地位を占めていたのが、モンゴルのカラコルムに直接その本営を置く大汗のウルスであり、二番目の地位を占めていたのが、サライ-バトゥに本営を置くキプチャク汗国のウルスであった。それらウルスの統治者らは何となく互いに嫌っており、彼らの間にはいち早く争いが始まり、ウルスは四つの完全な独立国家となっていく。しかし、こういったことが起こるのはさらに後のことである。
ヤロスラフが兄弟や甥たちと共にやって来た当時のキプチャク汗国は、まだ依然としてカラコルムの大汗に従っていた。問題の一部はキプチャク汗国で解決され、大公の弟のスヴャトスラフとイヴァン、それに甥たちは帰路に着いたが、バトゥはヤロスラフ二世を遠いカラコルムの地―そこではグユク汗が最近大汗の王座に就いていた―へ差し向けた。そこでヤロスラフ二世は、年代記作者の表現によれば、「多くの苦痛」を受けた。彼に対して何らかの悪巧みが進んでいた。一説によれば、グユクは、ルーシの大公が汗の意志に服従しながらも、モンゴル人の支配に大人しく服することを望まず、反抗するための力を徐々に蓄えていると聞き知った、ということである。別の説では、グユクの全家族が抱いていたところのキプチャク汗国の統治者に対するひどく激しい敵意が、バトゥの手から勅書を受け取ったヤロスラフ二世にも及んだ、ということである。
ヤロスラフ二世は、カラコルムからひどく病気気味の状態で出立し、その一週間後、1246年9月30日に旅の途中で亡くなった。諸史料の情報によれば、公はゆっくりと効く毒によって毒殺されたということである。毒は、汗の妃が夫のグユクに知らせないでごちそうと共に彼に勧めた、とも言われている。毒殺の説は、亡くなった公の体がひどく青くなっていたという事実によって、間接的に証拠立てられた。彼に同行した貴族がその亡骸をウラジーミルに運び、そこのウスペンスキー聖堂に、ヤロスラフ二世は敬意を持って埋葬された。
次回は「“タタールのくびき”の前夜―スヴャトスラフ三世の若かりし頃」。
乞うご期待!!
(大山・川西)
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