特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第91回 ネフスキーの大公位への執念

バトゥ汗  ネフスキーが大汗への呼び出しにすぐには応じず、躊躇していたら一年が過ぎてしまった。カラコルムへの出立をいつまでも延ばすことはできなかった――大汗への公然たる不従順は、ごく近い将来に北方ルーシが襲撃を受け破壊されることをほぼ確実に意味していた。そして1247年の末に、アレクサンドルはようやく旅立った。自らの運命を危ぶんだ彼は、自分に次ぐ弟のアンドレイを連れて行った。最悪の事態となった場合、故大公ヤロスラフ二世の一族における最年長の権利と義務が弟アンドレイにすぐさま移行し、アンドレイに安心して最後の指図を伝えることができるように、ネフスキーはそうしたのである。兄弟たちは最初、従来通りにバトゥ汗に忠誠を示すためにキプチャク汗国へ赴き、その後、遠いモンゴルへと出発した。大汗の本営では、不愉快なことは何一つ起こらなかった。しかし、到着が遅れたことに対する罰としてなのか、あるいはアレクサンドルの軍人としての高い名声を恐れたゆえなのか、ウラジーミル大公国の勅書はアンドレイの方に授けられた。汗はネフスキーには、キエフ公国と南ペレヤスラヴリ、チェルニーゴフを伴う南方の地域を治める勅書を手交し、ノヴゴロドと、さらに世襲領地としてペレヤスラヴリ-ザレスキーを彼のものとした。復路は二年を要し、兄弟たちがルーシに戻ってきたのは1249年であった。

 キエフ公国の諸土地は、そこには単に統治すべき人々が存在しないほど、荒れ廃れていた。ネフスキーはキエフに立ち寄ることすらせず、ノヴゴロドへ向かった。彼は今や形式上は、大公である彼の弟アンドレイに服従しなければならなかった。

 大公アンドレイが南ルーシの最も強力な公のひとりの娘と1250年に結婚した後、ネフスキーは南方における弟の影響力の増大を真剣に危ぶんだ。というのも、こういった結婚はその当時、親戚関係にある統治者らの同盟を必然的に意味したからである。その上、絶えず彼の思い波立たせることがあった。それは、アンドレイが一族の年長制の権利に基づいて大公位に就いているのではない、ということだった。1233年に彼らの兄であるフョードルが亡くなって以後、ネフスキーは一族の最年長者となっていた。とはいえ、大公アンドレイを退位させるためのまともな口実はなかった。アンドレイは、バトゥ汗が彼の統治に不満を抱くいかなるきっかけも与えなかったからである。残っている手段は、キプチャク汗国の汗たちの虚栄心を利用し、卑劣な行為を試みることしかなかった。

 1252年に、ネフスキーはキプチャク汗国のサライ・バトゥに出発した。バトゥ汗の息子であるサルタクは、高齢の父親に代わってあらゆる諸問題に手をつけており、ネフスキーは彼に、自分の弟は正当な権利に基づいて大公位に就いているのではなく、しかも汗国への貢税の支払いが完全ではないことを訴えたのである。それを証拠立てるものは何一つなかったにもかかわらず。

キプチャク汗国の系図

 次回は「ネフスキー、大公位に就く」。乞うご期待!!

(大山・川西)



HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第91回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
Некоммерческая организация "Общество Япония-Евразия, отделение префектуры Канагава"

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.