シベリア抑留体験談を聴く会
9/6(土)14:00〜16:00 横浜市従会館で標題の会が関戸事務局次長の司会で開かれました。 1.抑留者の洗脳なぜ、私のような軍国青年が共産主義者になったのか? 私はガリガリの軍国青年でした。大学を3年で繰り上げ卒業すると自ら志願して軍隊に入りました。その時「大志一番、君宮に捧げたい・・・」と和歌山の両親に遺書を書きました。 それが、抑留され、帰国したとき、何故、赤旗を振って帰ってきたのか? 関東軍が悪かったからです。捕虜にされてからもソ連軍は「管理し易い」ので軍隊組織をそのまま温存しました。敗戦にも拘わらず将校たちは特権意識を変えず、兵士に奥さんの赤い長襦袢の入った私物の柳行李を担がせたりしました。食べ物も兵卒より良いものを横領して沢山食べました。此処から「反軍闘争」、「吊るし上げ」が起こり、管理者が民主的に選挙されるようになったのです。 将校たちは身辺が危険になり、ソ連側によって将校専用の収容所に分離されました。 その後、「反ファッショ運動」が起こり、<ソ連とは?>、<社会主義とは?>、<搾取とは?>などのテーマで講習会が行われました。私はロシア語が出来たので、講師に任命されました。 <搾取>の勉強からはじめましたが、この言葉には自分の過去の生活体験から、感動を覚えました。 こうして勉強しながら、自分自身を洗脳してゆきました。 内地の人達が「鬼畜米英」から「進駐軍」に洗脳されたのとある意味では同質のものでした。 舞鶴へは赤旗を振って帰ってきたものの、「赤」と言われて就職できませんでした。 やむを得ず、家業の家具工場で働きましたが、後に学友の誘いで出版の仕事、次いで貿易の仕事を得ました。 辛い事も多々ありましたが、シベリアの教育では世界を見る視野が広くなりました。 2.苦役抑留中の4年間、厳寒、食糧不足に耐え、沿海州で鉄道建設、森林伐採、日本人の世話などの仕事をしました。 労役の報酬はジュネーブ条約でソ連が支払うことになっていましたが、1956年に日本政府は一切の対ソ債権を放棄してしまったので、結果的に徴兵,徴用した日本国政府に支払いの義務が移りました。 しかし、帰国後、舞鶴では2,000円と鍋、釜、毛布を支給されただけでした。80年代に国債10万円、銀杯、色紙が支給され、その後、独立行政法人平和祈念事業特別基金から商品券10万円(或いは、置時計、文箱、銀杯、旅行券の何れか一つ)が支給されましたが、4年分の苦役の労賃には程遠いものでした。 今年になって、全国抑留者補償協議会(全抑協)の長年に亘る活動の結果、民主、共産、社民、国民新党の野党4党で「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法案」が参議院に提出される運びとなりました。しかし、まだこの問題は解決されてはいません。 講演は以上で終了、10分休憩後、質疑応答 参加者から、当時の食糧事情、冬季の厳寒対策、洗脳などについて活発な質問、討論が行われました。参加者には抑留者やそのご家族の方もいました。
最後に柴田理事長が、 <シベリア抑留とは>第2次世界大戦で日本が無条件降伏した際、ソ連に捕虜として移送され、シベリアなどで長期間労働を強制されたこと。
中国東北部などに動員された日本軍兵士がほとんどで、ソ連はその数を54万6086人と発表している。
ソ連いがいの旧日本軍捕虜がほぼ1946年に帰還したのにたいし、ソ連抑留者の帰還がおおむね完了したのは1958年。
日時:2008年9月6日(土)14:00〜15:50
参加お申し込み・お問い合わせ: ※この会の後、16:00〜17:00に同じ会場で行われる横浜外国人墓地 第1回調査報告・第2回調査打ち合わせ会にも是非ご参加下さい。 |
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