文 芸
私の春が嫌いな理由
春が到来すると、皆周囲にいる客、同僚、あるいは見知らぬ人に対して、訪れる四季を喚起する言葉を述べずにはいられない。
「春は素晴らしいですね。」、「春はぬくもりの季節、愛の季節、桜の季節…。」等と彼らは言う。皆、次々と同意の言葉を交わし、新しい季節への賛美が会話を盛り上げる。
そして必ず誰かが、「私がなぜ、春が好きか分かる?」と、利口ぶった表情で私に質問してくる。
もちろん、私はその理由も知らない上に知りたいとも思わず、沈黙を守る。しかし、この沈黙は年上に対する礼儀作法と良識ある行動であると同時に、この会話のテーマに私自身が関心を示していない旨を示唆するものでもあるが、本人には理解されず。長いモノローグをしたくて仕方ない表情を彼は隠しきれず、仮に聞きたくないという私自身の気持ちを率直に言ってみたとしても、それをきっと分かってもらえないだろう。
「なぜ春が好きかというと、春は新生活がスタートし、新しい人との出会い、目標、幸福をもたらし、期待が膨らむからだ。」
春とそれに期待する全ての物事に対する隣人のべた褒めは、尽きることがない。聞けば聞く程、彼のちょうど1年前の期待が早くも自身の中で価値が失われてしまい、さらに今抱いた新しい期待も恐らく1年も持ちこたえられずに、酒の席での笑いネタか二日酔いの苦しみのきっかけになる他なくなることが目に見え、悲しくなってしまう。そして春は私自身が大切にしている物、愛している者を奪い、長い道のりと寂しい日々の向う側に持ち去ってしまった、という考えが思わず脳裏に浮かんでくる。
隣人は、自分に頷きながら話し続け、酒ではなく自身の言葉に酔っていく。私は常識に従ったというよりも、むしろ反論する力量がないため、笑みを保ちながら満足げな相手に首を縦に振ってしまうのだが、心の奥底では早くも夏が訪れ、春がもたらした全ての虚しさや傲慢さを長雨がきれいさっぱり洗い流してくれたら、と願ってしまう。
(ジャブライロフ・スレイマン/2011年4月)
音 楽
ウズベキスタンに於けるクラシック音楽の発展
D・オフチンニコフ
1868年(注)のツァーリ政府による植民政策により中央アジアがロシアに併合された後にウズベキスタンにロシアの先進的な科学、芸術の影響が浸透した。
80年~90年代になると、ウズベキスタン各地の都市に音楽愛好家の協会が設立された。
タシケント音楽協会(1884年に合唱指揮者兼バイオリニストのア・エフ・エイフゴルンの尽力により創立され、1895年からはヴェ・イ・ミハレクが率いた。)、タシケント合唱協会“リラ”(1898年に軍合唱団の合唱指揮者、ヴェ・ヴェ・レイスカの指導下で)、マルゲランスキー音楽協会(デ・イ・ミハイロフの指導)、サマルカンド音楽協会(90年代に設立)等々である。
新たに組織されたロシア人音楽家の交響楽団、室内アンサンブル、オペラ劇団、加えて諸外国からの客演芸術家(ロシア、グルジア、アゼルバイジャン、イタリー、フランス等々)によりコンサートが組織された。いたる所で行われた軍楽隊の演奏が音楽の普及に大きな役割を果たした。こうした活動が、ウズベキスタンの国民的音楽文化の発展にとって積極的な貢献をした。
この年代に初めてヨーロッパの演奏団体の為にウズベキスタンのメロディの編曲が行われた。(タシケント、チェコのヴィソクーミトで演奏された吹奏楽の為の編曲、1893年にモスクワで演奏された、エヌ・エス・クリノフスキーによる交響楽団向けの編曲がある。)
70-80年代には、ウズベクとその他の中央アジア諸国の作曲家(エイフゴルン、レイセク、エフ・プフェンニクその他)による作品の最初の出版が行われた。エイフゴルンは更に中央アジアとカザフスタンの楽器を収集し、1880年にペテルブルグとウィーンに出品した。しかし同様の事績は音楽家自身による個人的イニシアチブにより行われ国家による援助は行われなかった。エイフゴルンにより印刷の為に用意された、中央アジアとカザフスタン民族の民謡はソヴィエト時代になって初めて陽の目をみた。(ベリャーエフの編纂によるウズベキスタンに於ける音楽的フォークロワ、1963年、タシケントで発行)
ウズベキスタンで樹立されたソビエト政権(1917年11月~1918年3月)と関連する社会改革は音楽芸術の発展にとり質的変革をもたらした。
(次回に続く)
(訳・一杉 次郎/タシケント)

ロシア・モルドヴィア共和国のスポーツ事情
昨年末、フィギュアスケートのロシア国内選手権が二年連続モルドヴィア共和国のサランスクで開催された。地方都市にて連続で開催されることは異例と言えるが、誘致したサランスクは近年スポーツ競技全般に大変力を入れている。今大会ペア競技で優勝したバザロワ&ラリオノフ組(写真右)も今シーズンからホームリンクをサランスクへと移し、見事に初優勝を果たしている。もちろん冬季競技だけでなく陸上や室内競技にも同じく力を入れ、サランスクでの各種国際競技会が今後に控えている。
今大会期間中に是非と案内されたのは、サランスク市内にあるスポーツ複合施設「スポーツコンプレックス」だ。総面積は18630㎡、室内運動場やスイミングプールをはじめとした専門練習場以外にもウォームアップ用ホールや筋力トレーニングルーム、フィットネスルームなどを兼ね備え、有料ではあるが一般にも開放している。
(左)スポーツコンプレックス全景
(右)ゲート。スポーツコンプレックスの入り口。皆必ずセキュリティ検査が必要。
室内運動場では一般的な陸上競技の幅跳び、走り高跳び、砲丸投げなどのトレーニングが行われ、オルガ・カニスキナ(北京五輪女子20㎞競歩・金)やワレリー・ボルチン(同五輪男子20㎞競歩・金)などもここでトレーニングしていたという。バスケットボール、ハンドボール、レスリング、柔道などの多種多様な練習場も備えており、ここからも五輪メダリストを幾人も誕生させている。例えばレスリング競技ではアテネ五輪84㎏級金メダリスト、アレクセイ・ミチンを輩出し、今年はこの施設にてグレコローマンの国際大会を予定しているそうだ。
(左)スイミングプール。五輪と同じ水のろ過システムを採用したプール。訪れた当日は一般開放していた。104席の観覧席もある。
(右)バスケットボール&ハンドボールの練習場(小)。床は表面に特殊な加工を施し、滑りにくくクッション性に優れている。ミニサッカー場としても貸し出される。
この施設内で主に試合で利用されるのは、座席数1744席を擁するユニバーサルホールだ。アリーナ席を仮設すると2000席が可能となり、スポーツ以外にもコンサートや政治関係、教会関係の集まりにも多く利用されている。サランスクの若者たちはバスケットボールを好み、ここでの試合観戦後にカフェテリアでビールを飲むことが1つの楽しみになっているという。(カフェテリアでの価格は選手支援の為にとても安いとのこと)
また、スポーツコンプレックスからすぐ近くの場所にはヨーロッパで唯一の屋根付き室内自転車競技場もある。サランスクの若者にも人気のあるスポーツだそうだ。
(左)室内自転車競技練習場。試合と同じ環境を整えている。土はテニスコートと同じクレー。
(右)サランスクの子供たち。最終日に行われた地元サランスクの子供たちとのスケート教室
競技場を含め、これらのスポーツ施設はサランスク市内に多く点在し、競技会の誘致にも積極的だ。スポーツ競技に力を入れることで、モルドヴィア共和国を国内外にアピールするよう上手く繋げられていると強く感じられた。これも国(共和国)としての戦略のひとつだ。
(森 美和)
リペツク便り (12)最終回
リペツクに来て1年経ちました。冬の厳しい寒さにも慣れ、天気予報を見れば何を着たら良いかもわかるようになりました。これ、ロシアで生活していくために最も重要なことかもしれません(笑)。
日本人が想像するロシアって「人々は長く厳しい冬の寒さに耐えて暮らしている」というイメージが多いのではないでしょうか?私もロシアに来るまでそう思っていました。
確かに長く寒い冬ですが、一歩建物の中に入ればTシャツで過ごせるほどに暖房で温められ、風の無い晴天の日は防寒をすれば気温ほどには寒さを感じず、毛皮・ダウン・帽子・手袋・靴など、気候に対応した防寒着は機能的で非常に暖かい。日本に暮らすロシア人も、ロシアで暮らした日本人も、「冬は日本よりロシアの方が過ごしやすい」と言うのがよくわかります。
そして、西側ロシアは自然災害がほとんどありません。一年中全国津々浦々で災害を克服しながら暮らしている日本とは大違い。リペツクで暮らした1年の間、自然災害は一度もありませんでした。そして、日本は土地も資源も持たない。
だから頭と手を使い、常に備えを怠らず、イザという時は冷静かつ積極的に行動し、協調して困難を克服する、そんな日本人の資質はこの自然環境と歴史から生まれたものだとロシアに来てから思うようになりました。
それに比べロシアは平穏で穏やかです。人々は社会主義時代の恩恵で家や土地を、国家は広大な土地と資源を持ち、国として自給自足が可能です。長い冬はただじっと過ぎるのを待ち、夏には長い休暇を楽しみ、ダーチャで花や野菜を育てて冬支度をする。ロシアの人たちが貯蓄もせず保険にも入らないのも納得です。
私のリペツク暮らしはまだしばらく続きますが、こちらへの寄稿は今回が最後です。1年間ありがとうございました。
(堀江)
ムルマンスク便り ~民族友好祭2012の内幕(上)~
1月最終日曜日。市中心にある某文化宮殿では恒例「民族友好祭(以下、祭)」という祭が開かれる。ムルマンスク州在住の外国人団体や各国愛好団体が参加し、ステージで国の芸能を披露するというものだ。私が立ち上げた団体「ムルマンスクの中の日本」は2010年から参加。今回は日本の古歌「さくらさくら」を生徒達と歌う予定だった。
正月明けに申込用紙を提出しに行くと、取り纏めている女史から「日本は祭に参加してはならない」と言われたではないか。理由を聞くと「祭は各民族”協会”が参加対象であり、その民族がいない”愛好家団体”は参加対象に入ってない。確かに日本人はあなたがいるけど、一人で何ができるのよ。」
「今回は生徒達と一緒に日本の歌を披露する予定です。」
「ほらみなさい。あなた以外みんな愛好家じゃない。それじゃだめ。一人じゃ民族がいるとみなせないわ。それに一昨年はあなた出たけど、ほかの人が出たじゃない。あれでムルマンスクの日本人はゼロになったとみなされたのよ。」
一昨年は愛好家らとの共同参加を勧めた女史。今回は180度違うことを言ってきたのだ。随分横暴な参加条件である。私の存在は消され、私を手伝ってくれている愛好家のみなさんの気持ちと努力は踏みにじられたのだ。
その暴言の後「祭のステージには立てないけど、その後の参加者だけの打ち上げだったらエントリーしてOKよ。」
頭に血が上っていたがなんとか冷静になり、実際どうなっているのか確かめるため、当日の祭りの模様を見に行き、打ち上げに参加することに。各国演目も若干長かったように思えた。ウクライナを皮切りにベラルーシ、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア、サーミ…といった国々が、歌や踊りを披露。…あれ?全部昔のCCCP共同体メンバーじゃない。共同体以外はドイツとイスラエルのみ。
~つづく~
(MOPA)
ロストフで見たロシア下院議員選挙(後篇)
ロシアのテレビでは、投票日の前日まで、頻繁に各政党のCMが流されました。日本よりも長く、政党によっても長さが違います。与党の「統一ロシア」のCMは、やはりプーチン、メドベージェフを前面に立て、ロシアの発展や、軍隊も登場して強いロシアを強調します。野党の一つの「ロシア共産党」は、ジュガーノフが登場し、何かソ連時代を思わせる場面もありましたが、ちょっとおもしろい場面もありました。国のトップの行政官を思わせる人物が、国民への補助金を出すのですが、途中にいくつかの機関を表す人物をリレーしていく間に、それぞれが一部を自分のポケットに入れるので、最後に国民に渡った時はわずかしか残っていないというもので、今の行政機構の不正を批判したものでした。他に変わったCMは「ヤーブラカ」という政党のものです。最初私は、何かリンゴを生産する農業企業のCMかと思っていましたが、そのCMにしては長いので、やっと政党のCMと分かるような内容でした。
政党討論会の番組も流されていましたが、全政党が集まるものではなく、ある2党の組み合わせで、それぞれの党の代表が討論する内容ですが、代表者の後ろには、その党の支持者が陣取っていて、その支持者が相手の党の代表者とも激論を交わすというユニークな形式で行われていました。
選挙結果は、ご承知のように、棄権した人の票は、与党の信任票と称して、選挙管理委員が勝手に与党に投票してしまう(投票は政党の番号にチェックを入れるだけなので簡単)といった様な不正があったにもかかわらず、与党が過半数ぎりぎりまで票を減らしました。
最後に、これは選挙とは関係ありませんが、ロストフ空港に到着した時の様子を紹介して終わりにします。
空港のロビーに出た時、民族衣装を着て楽器を盛った男女5人がいるのを目にし、なんだろうと思っていると、わたしたち旅行団の前に出てきて、歌と演奏を始めたのです。そして一人一人にウォッカを一杯ずつ配ってくれました。聞くところによると、ロストフに日本人が来ることはめったになく、ましてや私たちのような旅行団が訪れたのは近年なかったということで、わざわざ歓迎してくれたのです。そのうちの一人は北川さんの知り合いの人でした。今ロストフに住んでいる日本人は、旅行団の案内をしてくれた女性一人だそうですが、その人は日本語の教師をしています。日本人が来ないような土地でも日本語を学ぶ人がいるのは驚きですが、理由を聞くと、半分は日本のアニメの影響とのことでした。日本のアニメの力はすごいですね。
(田中)
中央アジア見聞録(1)
~カザフスタン首都アスタナと日本~
東洋と西洋が入り混じるエキゾチックな地域、中央アジア。この度私はカザフスタン、ウズベキスタンの2か国に行って参りました。それぞれの国で新しい発見、たくさんの驚きがありましたので、何回かに分けてお伝えしたいと思います。
初めにカザフスタンの首都、アスタナに行きました。アスタナは、1997年にアルマティから遷都して以来、カザフスタンの工業、経済の中心地として発展してきました。この地に立ってまず受けた印象は、とても現代的な街だということです。さらに中心地に向かうとそこには現代アートのような建築物が立ち並び、まるで未来都市に足を踏み入れたかのような感覚にとらわれました。
実は、アスタナと日本には意外なつながりがあり、都市計画を立てたのは日本の建築家、黒川紀章氏です。1998年のカザフスタン政府主催で行われた国際コンペで1位に選ばれ、彼の計画に基づいて都市開発が行われました。実際市内には現代的なデザインの建築物や、最新の技術を駆使して建てられた建物が多くあります。
写真の左右非対称の建物は、ハンシャティルという名前のショッピングセンターです。この建物は世界で一番大きな尖塔と言われており、内部の気温が常に16℃~29℃になるような工夫がされています。
三角形の建物は、平和のピラミッドと言われる建造物です。内部にはオペラハウスや博物館、最上階には国際会議に使われるホールが入っています。実はこのエレベーターも特殊な技術で作られています。ピラミッドの端に位置しているためななめ上に昇るようにできているのです。実際に乗ってみると、普通のエレベーターとは違う何ともいえない不思議な感覚でした。
アスタナの都市計画の完成は2030年と言われています。あと18年後に一体どんな街になっているのか、今後の発展が楽しみなものです。
(左)カザフスタン・アパートホテル「アスタナ・トリウムフ」
(右)ウズベキスタンの民族楽器
(左)サマルカンド「シェルドル・メドレセ」 (右)市場のナン売り場
(高橋)
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