特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第70回 フセヴォロド三世の呼び名― “大巣公”の由来

リューリック朝系図

 フセヴォロド三世が栄光と権力の絶頂にあった1210年、ある事件が起こった。スモレンスク内の最も貧弱な分領地の公である、トロペツのムスチスラフ(系図内の★)が、何故か分からないが、突如トルジョークを占領し、大公が任命した同地の長官を逮捕して貴族らを追放し、彼らの財産を横領した。さらに、ノヴゴロドの人々に、彼らのもとで公として統治していた大公の息子スヴャトスラフを排して、代わりに自分を公として迎えるよう勧めたのである。フセヴォロド三世に相も変らぬ恨みを抱いていたノヴゴロドの人々はその提案に同意し、手始めに、スヴャトスラフをその側近の貴族らと共に拘束した。ムスチスラフは自分の従士団を連れ、大公自身を撃滅するためにトルジョークから出立した。それに対してフセヴォロド三世は、自分の長男コンスタンチンと軍隊とを送り出すつもりであったが、急に思いとどまり、息子スヴャトスラフとその側近貴族らを解放することをノヴゴロドの人々に命じるという条件を出して、ふてぶてしいムスチスラフと和睦を結んだ。

 フセヴォロド三世は、“大巣公”というあだ名でよく知られている。彼には最初の妻との間に、8人の息子と4人の娘がいた。息子は、コンスタンチン(後の大公)、ボリスとグレープ(幼児の時に死去)、ユーリー(後の大公)、ヤロスラフ(後の大公)、ウラジーミル、スヴャトスラフ(後の大公)、イヴァン。娘は、フセスラヴァ、ヴェルフスラヴァ、エレーナ、ペラゲヤ-スビスラヴァ、である。フセヴォロド三世の妻はその晩年の8年間、重い病を患い、死期が迫っていることを予感し、1208年にウラジーミルのウスペンスキー修道院でマリヤという修道名をもらって、修道女の剃髪式を受けた。その18日後、彼女は死去した。1209年、フセヴォロド三世はポロツクの公女ヴァシリコヴナを娶り、再婚した。

 その三年後、大公はひどく病みついた。彼は自分の息子たちを集め、自分が亡くなった後は長男コンスタンチンに大公位を譲る、という意志を彼らに伝えた。ところが、コンスタンチンはすでに長いことロストフの地で父親の代理を務めており、同地で地元の有力者と友好的実務的関係を結んでいた彼は、ロストフ-スーズダリ公国の地位復興とロストフを首都にするという、ロストフの有力者の昔からの執拗な望みを共有していた。この考えを彼は父親に提起したが、フセヴォロド三世は新たな政治的再分割がおびただしい流血なしでは実現しないことを理解していた。コンスタンチンに失望したフセヴォロド三世は、自分の後継者として、年齢的に次の年長者となる息子ユーリーを指名することに決めた。この決定は一族の年長制に反するものであったため、この決議にさらなる重みを付与するために、フセヴォロド三世は全地公会議のようなものを召集することにした。各都市、各郷の貴族や聖職者、商人、有力者の一族の代表者がウラジーミルに集まった。国内の平和がすべての者に求められていた。大公の理由を聞いたこの会議のメンバーは、全員一致でユーリーに宣誓した。

 大公はその後、病気から回復することなく、1212年4月14日、穏やかに逝去し、彼の死を全民衆が悼んだ。

 次回は「ユーリーとコンスタンチンとの間の継承者争い」。乞うご期待!!

(大山・川西)


HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第70回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
НПО Канагавское общество "Япония-страны Евразии"

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.