
◆ 第63回 キエフの陥落
アンドレイ・ボゴリュブスキーをめぐって、一つの有名なイコンが存在する。聖ルカ直筆とされる伝説のイコンが、1155年にコンスタンチノープルからキエフに渡ってきたが、その六年後、アンドレイはそれを新首都ウラジーミルに持ち去り、そこに建立したウスペンスキー聖堂に掲げた。その後、『ウラジーミルの生神女』と呼ばれるようになったこのイコンは奇跡を起こすと言われ、ロシアの守り神として方々の地を移りゆくこととなるのである。
ところで、1167年にキエフ大公になったのは、イジャスラフ二世の息子であるムスチスラフ二世であった。かつてアンドレイも、父親とその宿敵イジャスラフ二世とのキエフをめぐる戦いにおいて父親を援助したように、ムスチスラフ二世も自分の父親の側に立って戦ってきた。新大公となった長年の政敵に対して、アンドレイ・ユーリエヴィチが愛情と尊敬を抱けなかったのは当然であった。他の多くの諸公も同様であった。結局、1169年の初頭、11人のルーシ諸公から成る強力な反キエフ同盟が成立した。その上、アンドレイは、彼の父親の死後にキエフの人々がしでかした、大公宮殿の破壊と略奪のことを忘れていなかった。アンドレイは連合軍の指揮を、自分の息子に委ねた。遠征の準備はひそかに行われ、南方へ出立した連合軍はキエフの地に現れたが、それはムスチスラフ二世にとってまったく予期せぬことであった。二日間の包囲の後、キエフは強襲に耐え抜くことができず、1169年3月12日に陥落した。その後三日間、例外なしの略奪や強奪が行われた。すべてが焼かれ、燃え上がり、その中には教会も入っていた。住民の財産ばかりでなく、法衣やイコン、鐘もが運び出され、多くの捕虜が連れ去られた。
大公の称号を得たアンドレイは、略奪され貶められた古代ルーシ国家の首都キエフを、普通の分領公国として弟のグレープに与えた。今やウラジーミル大公国の首都の地位は、クリャージマ河畔のウラジーミルに移り、それはキエフ・ルーシの衰退の始まりを意味することとなった。
アンドレイが父親の死後、しばらくの間南ルーシの出来事に干渉しなかった理由は、首都をウラジーミルに移すという決定を彼がなした時に明確なものとなった。おそらく、すでに何十年か前にキエフはロストフ、スーズダリの地とノヴゴロドとスモレンスクに対して事実上統制力を失い、それらの地では地元の貴族が独断で自分たちの公を選出していたその事実も、影響を与えたのだろう。加えて、南ヨーロッパと地中海地域でのイタリア商人の活発化のために、東ヨーロッパと中部ヨーロッパの間、ビザンチンと小アジアの間の通商関係が強固になっていた。また、十字軍遠征の後に、近東とヨーロッパの間の通商関係も強まっており、これらすべての通商関係とその経路はキエフを迂回していた。北西ルーシにとって、キエフを含む南方ルーシは以前のような魅力的な取引相手でなくなりつつあったという事実も政治に裏側にはあったのである。
次回は「ノヴゴロドとの衝突」。乞うご期待!!
(大山・川西)
HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第63回
|