◆ 第62回 ノヴゴロド統治をめぐって
ロストフ-スーズダリの最古参の貴族を国政から引き離す方法は、アンドレイの頭におのずと浮かんできた――それは専制であった。1162年頃には、アンドレイは公の分領地制度を廃止し、それら分領地を取り上げて、自分の兄弟や息子たちにすら、独立統治するためには個々の都市を決して与えなかった。彼らはただ、それらの諸都市でアンドレイの代理人としての職務を遂行するだけであった。似たような理由のため、アンドレイは父親の死後しばらくの間、キエフをめぐる戦いに関わろうとはしなかった。彼は、自分の公国とは異なり、ルーシ南方にしかるべき秩序を確立することは不可能であることをよく心得ていた。ルーシ南方では、諸都市とその民会の身勝手な振る舞い、南方の諸公に仕えることに慣れている従士団や軍司令官の意向、隣接する土地にいるポロヴェツ人、加えて、キエフ公位を要求する他のロシア諸公の存在といったように、物事が幾多もの諸要素に左右されていた。
アンドレイは自らの注意を、キエフに向ける代わりにノヴゴロドの方へ注ぎ始めた。それなりの理由も十分にあった。話が遡るが、1158年にロスチスラフがキエフ大公位に就く直前、彼の息子らであるスヴャトスラフとダヴィドが従士団を引き連れてノヴゴロドに突然現われ、そこを統治していたアンドレイの実の兄弟であるムスチスラフを追放してしまったのである。1161年頃には、ノヴゴロドとトルジョークを治めていたスヴャトスラフとダヴィドは、ノヴゴロドの人々をひどく失望させており、ノヴゴロドの人々はアンドレイの側に傾き始めていた。アンドレイはおそらく、信頼する人間を通じて、ノヴゴロドで自分の利益を図るような政治工作を行っていたのであろう。この時、ウラジーミル大公であるアンドレイの支持者となったのは、1158年にキエフから追放されたチェルニーゴフのイジャスラフであった。同盟を強化するために、アンドレイは自分の娘をイジャスラフの甥であるスヴャトスラフに嫁がせた。
ノヴゴロドの人々は、自分たちの土地からロスチスラフの子たちを追い出した後、アンドレイのもとに代表団を送り、彼の息子を統治者として送ってくれるよう依頼した。アンドレイは息子を行かせることを望まず、自分の兄弟であるムスチスラフをノヴゴロドの使者たちに勧めた。だが、ノヴゴロドの人々は以前のムスチスラフの統治に不満だったらしく、その点では一歩も引かなかった。結局、アンドレイの娘の夫であるスヴャトスラフを赴かせることで話がまとまった。とはいえ、彼の統治は長くは続かなかった――大公ロスチスラフに譲歩しなければならず、ロスチスラフの息子が再びノヴゴロドの公位に就くこととなったのである。
次回は「キエフの陥落」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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