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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第53回 ユーリーの宿敵

スーズダリのクレムリン

 前回も言及したように、イジャスラフ二世の息子のヤロスラフが1147年の秋からノヴゴロドを実際に治めていたにもかかわらず、ユーリーはノヴゴロドの地の一部を占領し確保することに成功した。これは、大公イジャスラフ二世に対する公然たる挑戦であり、大公は、ユーリーの本拠地であるスーズダリを攻めるために兵士を集め始めた。この頃、ユーリーと彼の長男ロスチスラフの関係がこじれていた。ロスチスラフはその八年前にノヴゴロドから逃走してきて以来、スーズダリ公国における自分の分領地を父親に要求してきたが、ユーリーはキエフと対立している状況下にあって公国の細分化は容認できないと考えていた。父親の拒絶にあったロスチスラフは、キエフの大公イジャスラフ二世のもとへ逃げ出す以外、何も思いつかなかった。

 やがて、ユーリーのもとへ和平の提案を携えた大公の代表団が到着した。しかし、ユーリーは、かつてイジャスラフ二世のせいでペレヤスラヴリを放棄せねばならなかったことを根に持っていたのであろう。その上、ユーリーにはリューリック一族の最年長者の権利があったのだが、イジャスラフ二世の使者は、キエフをユーリーに譲渡することをほのめかしさえしなかった。ユーリーは返答を与えず、逆に代表団を捕えてしまった――彼には防衛の準備ができていたのである。1149年2月、イジャスラフ二世の軍隊はスーズダリに向かって出動したが、すぐに粘り強い抵抗に遭遇した。同年3月末には、雪が解けて泥濘期に突入したために、イジャスラフ二世は戦闘を中止せざるをえなかった。ヤロスラブリとさらに幾つかの町を占領して溜飲を下げたイジャスラフ二世は、戦利品とおよそ七千人の捕虜を連れてスーズダリの地から立ち去った。

冬のスーズダリ

 この年の夏の初めに、スーズダリへユーリーの長男ロスチスラフが戻ってきた。というのも、失敗に終わったスーズダリ遠征に対する腹いせなのか、あるいは父親のユーリーに町を引き渡すようロスチスラフがキエフの人々を煽動しているという噂を信じたのか、イジャスラフ二世はロスチスラフに汚名を着せてキエフから追い出してしまったからである。ロスチスラフの従士団は武器を取り上げられて監禁され、ロスチスラフの財産は没収された。彼はたった4人の召使と共に追放されたのである。ユーリーは悔悟して戻ってきた息子を許したが、このことと、スーズダリ公国のヴォルガ川流域を破壊したことに対して、イジャスラフ二世に復讐しようとした。ユーリーはすでに夏の終わりには、先頭部隊はを大公の息子ムスチスラフが統治しているペレヤスラヴリに押し進め、そこを包囲し始めた。8月23日、ユーリーの従士団は近づいてきたイジャスラフ二世の主要軍隊を撃破し、翌日彼はペレヤスラヴリへ、さらに三日後にはキエフへ入城した。キエフ大公位をめぐる戦いを完結したとみなしたユーリーは、即座に各都市を息子たちに割り当てた。ペレヤスラヴリはロスチスラフのものとなり、二番目の結婚で生まれた長男のヴァシーリーにはスーズダリを、アンドレイとボリス、グレープにはキエフの地にある都市――ヴィシェゴラド、ベルゴラド、カネフ――が分配された。

 次回は「二人の公のシーソーゲーム」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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