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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第57回 ロスチスラフ―スモレンスク公からキエフ大公へ(統治1158-1167)

 大公ユーリーが1157年の5月に亡くなった後、キエフ大公位にはチェルニーゴフのイジャスラフが就いた。しかし、すでに翌年にはイジャスラフ二世の息子であるムスチスラフ(モノマフのひ孫)が、チェルニーゴフのイジャスラフを首都から追放した。このムスチスラフはキエフで大公として統治はせず、血のつながった叔父である、イジャスラフ二世の弟ロスチスラフを大公位に招き、1158年4月12日にロスチスラフは厳かにキエフへ入城した。

 モノマフの孫であり、1127年に最初のスモレンスク公となったロスチスラフは、兄イジャスラフ二世が亡くなると、1155年の初めに、イジャスラフ二世の共同統治者であった叔父ヴャチェスラフから新たな共同統治者として招かれた。だが、ロスチスラフがキエフへ到着した数日後に、高齢であったヴャチェスラフが逝去し、チェルニーゴフのイジャスラフがベロウス河畔でロスチスラフの軍隊を撃破して再びキエフ大公位に就いた。その後、ユーリーがキエフ大公位に返り咲くことになるのであるが、この度はロスチスラフの甥ムスチスラフが彼のためにキエフ公位を戦って奪還し、イジャスラフとロスチスラフはその立場が逆転することとなったのである。

ノヴゴロドのバザール

 キエフへ招かれる少し前、ロスチスラフはノヴゴロドの地において少なからぬ影響力を持っていた。ロスチスラフはその地で多数の支持を得ており、彼の支持者は、当時そこを治めていたユーリーの息子ムスチスラフを追放してしまうようノヴゴロド住民を説得した。しばらくして突然、ロスチスラフの息子のスヴャトスラフとダヴィドが従士団を引き連れてノヴゴロドへやって来ると、その三日後には、そこへロスチスラフが妻と共に到着した。ムスチスラフは父ユーリーのいるキエフへ逃げ去るしかなかった。ノヴゴロド住民らと諸々の調整を終えたロスチスラフは、ノヴゴロドの統治に息子スヴャトスラフを残し、トルジョークの地にはダヴィドを差し向け、自身は公妃と共にスモレンスクへ出立した。諸史料は、さらに彼の他の息子ロマンと、娘のことにも触れている。

 一方、ムスチスラフに敗れたイジャスラフは自分の敗北を認めなかった。1159年、ロスチスラフはイジャスラフの攻撃を撃退することに成功したが、しかし1160年の2月12日、イジャスラフはロスチスラフに首都の放棄を余儀なくさせた。だが、それは長くはなかった。一ヵ月ちょっとの後、ベルゴロド近郊の会戦でロスチスラフはイジャスラフの軍隊を完膚なきまでに粉砕し、再びキエフを取り戻したのである。

次回は「大公ロスチスラフとノヴゴロド」。
乞うご期待!!

(大山・川西)



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