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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第55回 ユーリー・ドルゴルーキーという呼び名の由来

キエフ・ペチェルスキー大修道院

 イジャスラフ二世はユーリーの野望をくじくために、ユーリーの腹違いの兄で15歳年上のヴャチェスラフを共同統治者として招いた。これで、もはやスーズダリ公ユーリーには、キエフ大公位を要求する正当な法的理由が失われた。いうまでもなく、一族の最年長の権利はヴャチェスラフに属していたからである。しかしながら、ユーリーは、キエフへ進軍する準備を再び始めた。なぜ、彼はこれほどにもキエフに執着したのか?当時、キエフ大公国には十分に発達した豊かな町が80以上あったが、スーズダリ公国には全部で14の町しかなかったという。このこと一つを取ってみても、ユーリーの執念は決して理解できないものではない。かなり後に、15世紀の年代記作者らは、キエフを奪取したいというこの抑えられないユーリー欲望をなぞって、彼に「ドルゴルーキー(長い腕)」という呼び名をつけた。その後、ユーリー・ドルゴルーキーという通称が広まった。だが、ユーリーと同時代の諸年代記にはこの呼び名は出ていないので、民衆の間でユーリーが実際にそう呼ばれていたかどうかは定かではない。

 1947年、モスクワ800周年を祝う日に、モスクワの創立者とみなされているユーリー・ドルゴルーキーの遺骨を首都に厳かに運び入れることが計画されていた。そのため、スターリンの個人的な指示により、ユーリーの墓を探すためにゲラシモフを長とする調査隊がキエフへ派遣された。ユーリーが埋葬された正確な場所は知られておらず、キエフのペチェルスキー大修道院内にある聖救世主修道院の中の聖堂の宝座をすべて掘り返すこととなった。ユーリーが生きた時代には、その場所には宮廷付属のベレストヴェ村があったのである。公の墓は結局、発見されずじまいだった。

ユーリー・ドルゴルーキーの遺骨とされるもの

 1989年、ハルラモフの調査隊がその同じ聖堂の壁のところで石棺を見つけ出した。その中に入っていた遺骸がユーリー公のものであると確認するにはおよそ10年が費やされたのであり、1997年にようやく学者たちはそのことを自信を持って言明した。現在、遺骨はキエフのペチェルスキー修道院の敷地内にある建物の中におさめられており、ウクライナの地方当局によって、それはロシアに譲渡すべきではない往古からのウクライナの財産とみなされている。

 中世の諸史料は、信頼に足るユーリーの姿を描き出していない。三回に渡る公の遺骸の鑑定検査は、存命中のユーリー・ドルゴルーキーの姿を正確に復元した。彼は背が低く、太っており、肉体的に十分発達しておらず、骨の病気を患っており、途方もなく長い手足を持ち、鼻が曲がっていたと推測される。このことから、ドルゴルーキーという呼び名は、他人の領土を占領したいとする彼の抑え切れない願望のせいではなく、ユーリーのまさに不自然に長い上肢から取られたものだとも考えられるのである。

 次回は「嫌われ者ユーリーの最期」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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