
◆ 第54回 二人の公のシーソーゲーム
ユーリーはキエフへ入城したが、イジャスラフ二世はその状況に甘んじるつもりはなかった。ウラジーミル・ヴォルィンスキーに落ちついた彼は、自分の親戚――ハンガリーやポーランド、チェコの支配者たち――に軍事援助を求めた。イジャスラフ二世に援軍が約束されたことを知ったユーリーは、それに対抗して、ガーリチ公であるウラジーミル(モノマフの従兄弟ロスチスラフの孫)と同盟を結んだ。というのも、ガーリチ公ウラジーミルの領土は、ウラジーミル・ヴォルィンスキーと国境を接していたからである。ガーリチ公はユーリーとイジャスラフ二世との交渉を仲介し、1150年の春には双方の間で和平条約が締結された。それによって、キエフを治める最年長の権利がユーリーにあることは認められたが、その三年前に彼が占領したノヴゴロドの地と、同じくペレヤスラヴリをめぐる会戦で彼が得た戦利品はイジャスラフ二世に返さねばならなくなった。
しかしながら、ユーリーはいつまでもそれらの約束事を遂行しようとしなかった。この時期、ユーリーは徹底的にルーシ諸公と新たな同盟を結び、強めていった。当時、諸公の同盟は彼らの子供同士の婚姻によって強められていた。1150年の春、ユーリーの娘オリガはガーリチ公ウラジーミルの息子に嫁ぎ、また別の娘エレーナはチェルニーゴフ公スヴャトスラフの息子であるオレーグ(モノマフの従兄弟オレーグの孫)に嫁いだ。
イジャスラフ二世もまた時を無駄にせず、軍隊を集めていた。ユーリーによる条約の不履行という大義名分を得たイジャスラフ二世は、即座にペレソプニッツアを占領し、遊牧民の部隊を味方に引き入れ、まっしぐらにキエフへ進軍した。不意をつかれ狼狽したユーリーは、首都から逃走してしまった。1150年の夏、イジャスラフ二世は再びキエフ公位に就いたが、しかし9月には、ガーリチ公ウラジーミルがイジャスラフ二世をキエフから追い払い、嫁の父であるユーリーを大公位にまねいた。9月15日、ユーリーはまたもやキエフの大公宮殿を占有した。
すべてがふりだしに戻った。弟のウラジーミル、グロドノ公ボリス、息子のムスチスラフの従士団の他に、さらに一万のハンガリー騎兵隊を率いたイジャスラフ二世の軍隊は、再度キエフへ向かって進軍した。一方、ハンガリー人を不断の敵とするガーリチ公ウラジーミルは、イジャスラフ二世を追撃した。たくみな機動作戦によってイジャスラフ二世はガーリチ公から逃れ、敏速にベルゴロド(注)を占領した。この頃、イジャスラフ二世の軍隊がキエフに進軍しているという重大な情報は、ユーリーの耳に届いていなかった。軍隊は人気のない場所を通ったわけではなく、キエフに使者を差し向けることは特別に困難なことではなかったはずだが、おそらくユーリーは、ルーシ南部で人々の好意を勝ち得ていなかったのだろう。ユーリーがこの襲撃のことを知ったのは、イジャスラフ二世が寛大にもベルゴロドから解放した息子グレープからであった。防衛軍を組織する時間はすでになく、ユーリーは一目散にキエフから逃げ出した。イジャスラフ二世の追撃を続けていたガーリチ公ウラジーミルは、この知らせに激怒した――というのは、彼の働きによってユーリーはキエフ大公位に返り咲いたのに、ユーリーはキエフに篭城して敵を迎え撃とうとすらしなかったからである。翌1151年3月後半、ウラジーミルは自分の軍隊をガーリチへ引き上げさせてしまった。
次回は「ユーリー・ドルゴルーキーの由来」。乞うご期待!
(注)前回の表記は“ベルゴラド”でしたが、“ベルゴロド”で統一します)
(大山・川西)
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