
◆ 第56回 嫌われ者ユーリーの最期
イジャスラフ二世からキエフ大公位を奪還しようとあくなき戦いを続けるユーリーは、1151年4月末、自分の息子たち、チェルニーゴフ諸公の連合軍隊(ユーリーの娘の婚姻により縁戚関係にあった)、それに金で雇ったポロヴェツ人の部隊を率いて、キエフへ進軍した。イジャスラフ二世は南方のルーシ諸公から援助をあらかじめ取り付けていた。ユーリーの娘婿であるガーリチ公ウラジーミルの部隊が到着するのを待ちながら、ユーリーは後衛戦をしながらゆっくりと退却し始めた。だが、イジャスラフ二世は、ルト湖の近くで決戦を強いた。この戦いでユーリーは敗北し、まずポロヴェツ人の部隊の残党が逃げ出し、その後ユーリーやチェルニーゴフ公の軍隊が敗走することとなった。ユーリーと息子たちはペレヤスラヴリへ逃れたが、7月半ばには包囲され、ペレヤスラヴリから立ち去らねばならなかった。翌年の春、イジャスラフ二世の軍隊は、南方ルーシにおけるユーリーの最後の拠点であったゴロジェツ-オステルスキーを占拠し、廃墟にしてしまう。
ところが、ユーリーの粘り強さには驚くべきものがあった。1152年の夏、彼の軍隊は再び南方へ向けて出動し、この度はチェルニーゴフ公国へ向かった。チェルニーゴフ諸公はイジャスラフ二世がルト湖付近で勝利した後、彼の同盟者となっていたのである。この遠征は失敗に終わった。チェルニーゴフへたどり着くまで多くの難関があった上に、ユーリーは12日間に渡る包囲の後ですらチェルニーゴフを占領することができなかった。彼は冬が到来する前に、獲得した戦利品のみで満足して引き返さねばならなかった。
1154年11月半ば、大公イジャスラフ二世が死去した。共同統治者の相方を失った高齢のヴャチェスラフは、故イジャスラフ二世の弟であるスモレンスク公ロスチスラフを新たな共同統治者として招いた。しかしながら、1155年の初めにヴャチェスラフが突然亡くなると、チェルニーゴフ公イジャスラフ(前チェルニーゴフ公スヴャトスラフの従兄弟)がロスチスラフの軍隊を撃破して、キエフ大公位に就いた。
この事件を知ったユーリーは、軍隊を率いてキエフへ向かった。腹違いの兄ヴャチェスラフの死後、ユーリーは一族の最年長者となっており、イジャスラフは戦わずしてユーリーに首都を明け渡した。1155年3月20日、ユーリー・ドルゴルーキーは完全に大公の位をものにしたのである。
1157年5月10日、ユーリーはキエフの商業税徴収人ペトリルのところで酒盛りをしていた。深夜近く、彼の容態は急に悪くなり、数日間痛みに苦しんで5月15日に亡くなった。同時代人は、よそ者を嫌ったキエフの貴族がユーリーを毒殺したのだとみなした。彼らは自らの権益をユーリーと分かち合うことを望まなかった。5月16日のユーリーの葬儀の日、ロストフとスーズダリの地からきた裕福な住民は殴打殺害され、その財産が略奪の憂き目に合ったという。
次回は「ロスチスラフ―スモレンスク公からキエフ大公へ(統治1158-1167)」。
乞うご期待!!
(大山・川西)
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