◆ 第60回 アンドレイ・ボゴリュブスキー(統治1169-1174)の青年時代~キエフ大公国からウラジーミル大公国へ~
元大公ユーリー・ドルゴルーキーの二番目の息子であるアンドレイ(※右図)は、成人に達した時に父親から分領地として与えられた、クリャージマ河畔のウラジーミルで30歳まで過ごした。
アンドレイは20代半ばになると、軍事的にも積極的に父親を助け始め、1149年の秋にユーリーが初めてキエフを占領した際には、彼はヴィシゴロドを治めた。しかし、すでに翌年の春には、ユーリーは政治的理由から彼をそこから撤退させた。
1150年の夏、イジャスラフ二世によってキエフから追放されたユーリーは、その秋にはまたもやキエフを占領した。その折、ユーリーは、ペレソプニッツアを統治するようアンドレイを送り出し、トゥーロフとピンスクを彼の分領地に加えた。
アンドレイは父親の多くの戦役に参加し、有能な司令官としての評価をこの頃には獲得しており、彼の勇敢な振る舞いについては伝説が流れていたほどであった。その上、彼は用心深く、分別を備え、パニックに陥らない能力があり、彼に不意打ちを食らわすことは事実上不可能であった。
1155年の春、ユーリーはキエフ大公国の支配を完全に確立した。大公権力を確かなものとするために、ユーリーは息子たちに南方の各都市を割り当てた。アンドレイは、すでに以前から馴染みのあるヴィシゴロドを手にしたが、地元の貴族と民衆は、新大公ユーリーとその息子たちを受け入れようとはしなかった。彼らにとっては、ユーリーも彼の息子たちも、ひどくうぬぼれたスーズダリの田舎者でしかなかったのであろう。おそらく、この時にアンドレイは、人々が横柄で我侭な土地柄の南ルーシが大嫌いになった。そのような状況下にあって、アンドレイはヴィシゴロドを治め続けられるとは思っておらず、それに加えて、彼はキエフをめぐる終わりのない戦いに飽いていた。戦ったところで、老齢の父親が亡くなった後に続く、キエフ公位の要求資格者は彼の他にもたくさんいたのである。その年の秋、アンドレイはごく近しい側近と妻ウリタ、すでに成人した二人の息子、さらに娘を連れて、父親には内証でスーズダリの地へ去ってしまった。キエフ大公国において自分の一族を揺るぎないものにするつもりであったユーリーは、アンドレイが去ったことにより自分の計画をすべて乱され、彼に激怒したユーリーは、アンドレイに北東の町すら与えなかった。そこでアンドレイは、クリャージマ河畔のウラジーミルの近くに新しい村を築いた。アンドレイの夢の中でかつて生神女(聖母マリア)が現れたことにちなんで、この村はボゴリューボヴォ(神の愛)と名づけられた。やがてこの地は、小都市ボゴリューボフへと発展し、その創設者であるアンドレイには、ボゴリュブスキーというあだ名がつけられた。
次回は「新首都ウラジーミルの誕生」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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