特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第58回 大公ロスチスラフとノヴゴロド

大公ロスチスラフ

 1161年、大公ロスチスラフとノヴゴロドの関係が緊迫し、ノヴゴロドの住民は故大公ユーリーの息子である、スーズダリのアンドレイの側に傾き始めた。ノヴゴロド共和国の首都ノヴゴロドにはロスチスラフの息子スヴャトスラフが、また同共和国内のトルジョークの地にはその弟のダヴィドが座していたが、ノヴゴロドの住民は民会を集め、「二人の公を保持することはできぬ。ダヴィド公を追放せしめよ」とスヴャトスラフに迫り、彼をしてその弟ダヴィドを追放させた。ダヴィドはスモレンスクにいる、兄弟ロマンのもとへ向かった。その上、ノヴゴロド住民は、スヴャトスラフ側には何の落ち度もないのに、彼に敵対して民会を再び召集した。群集はスヴャトスラフの従士団の武装を解除し、公妃を修道院へ幽閉し、スヴャトスラフ自身を最初は丸太小屋に閉じ込め、その後、見張りを立ててラドガへ追放した。このような卑劣な振る舞いは、大公ロスチスラフを恐ろしく激怒させた。というのは、ノヴゴロドの人々は彼にも、彼の息子スヴャトスラフにも、十字架に接吻して忠誠を誓っていたからである。ロスチスラフは、キエフにいたあらゆるノヴゴロド人を捕え、穴蔵に投じるよう命じた。最初の夜、穴蔵の狭苦しさと蒸し暑さのために、14人の囚われ人が亡くなった。ロスチスラフは残った囚人をさまざまな町へ送り分けるよう命じた。ノヴゴロドの人々はスーズダリのアンドレイのもとに人を遣わして、彼の息子をノヴゴロド公として招こうとしたが、アンドレイは自分の甥のムスチスラフを彼らのもとに遣わした。スヴャトスラフはポロツクへ、その後スモレンスクへ去った。翌年、ノヴゴロドの人々はスヴャトスラフを自分たちの公として再び受け入れ、ムスチスラフを放逐した。

スモレンスクのクレムリンの城壁

 1166年、再びノヴゴロド内で衝突が起き、同年末に大公ロスチスラフは息子のもとへ赴いた。途中、スモレンスクへ立ち寄り、そこでしばらく客となった後に、公は先へ進んだが、すっかり病みついてヴェリーキェルーキにとどまった。ロスチスラフは息子にそこまで出迎えに出てくるよう命じ、ヴェリーキェルーキにおいて息子とノヴゴロド住民の代表団と対面して、双方を和解させた。キエフへの帰途についたロスチスラフは、スモレンスクでさらに具合が悪くなったが、旅を続けるよう命じた。彼は全快したらペチェルスキー修道院で修道士になるための剃髪式を受けることを約束し、万一の死に備えて自分の埋葬地をあらかじめ指示した。スモレンスクからそれほど遠くないところにあるザルーパ村で、ロスチスラフの容態はひどく悪化し、1167年3月14日に亡くなった。

 3月21日、大公ロスチスラフはキエフの聖フョードロフ教会付属の修道院に埋葬された。

 次回は「ムスチスラフ二世(統治1167-1169)の統治と死」。乞うご期待!!

(大山・川西)



HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第58回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
НПО Канагавское общество "Япония-страны Евразии"

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.