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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第59回 ムスチスラフ二世(統治1167-1169)の統治と死

 1167年の春、大公ロスチスラフが亡くなると、キエフ大公位にはイジャスラフ二世の息子で彼の甥である、ウラジーミル・ヴォルィンスキー公のムスチスラフ(二世)が就いた。それ以前、1158年にこのムスチスラフ二世は、キエフを占領したチェルニーゴフ公イジャスラフ・ダヴィドヴィチをキエフから追放したことがある。しかし、彼はこの時大公位には就かず、実の叔父のロスチスラフをキエフ公位に招いた。その叔父の亡き後ムスチスラフ二世は、キエフ大公位は自分に属するとみなし、1167年5月13日にキエフへ入城した。故大公ロスチスラフの息子たち、そしてムスチスラフ二世の息子たち、および彼の兄弟たちは、キエフの地にあるいくつかの郷を自分たちの公国内に合併したことを宣言したが、親族である他の諸公は異議を唱えず、問題は丸く収まった。

 父親の在命中、ムスチスラフ二世はペレヤスラヴリで公として統治し、スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーとの戦いにおいて父親を援助した。1149年の秋に、ユーリーが初めてキエフを占領した時、ムスチスラフ二世はペレヤスラヴリを立ち去る羽目になり、父親と共にウラジーミル・ヴォルィンスキーに腰を据えた。それ以降、キエフをめぐる彼らの戦いは続いた。

 ムスチスラフ二世が大公位に就いた時、ユーリー・ドルゴルーキーの息子であるアンドレイ・ボゴリュブスキーは、彼をキエフから追放しようともくろんだ。

黒頭巾とルーシの勇士

 1168年4月、大公ムスチスラフ二世はノヴゴロドの人々の依頼により、自分の息子ロマンを統治のために彼らのもとへ差し向けた。ノヴゴロドの人々は新しい公と共に、その前年にポロツク人がノヴゴロドの郊外と郷を破壊した仕返しに、ポロツクの地を攻撃した。大公は息子を援助するために、さらにアンドレイの弟ミハイルを向かわせた。このミハイルは兄のアンドレイ・ボゴリュブスキーとは異なり、ムスチスラフ二世に忠誠を示していた。ミハイルと共に黒頭巾の部隊も進軍した。その頃、アンドレイ・ボゴリュブスキーは大公ムスチスラフ二世に対抗して、11人の公から成る強力な同盟をすでに組織していた。この同盟軍によって、ミハイルの部隊はノヴゴロドへ向かう道中で足止めされてしまい、同盟軍の方はキエフへ進んでいった。この進軍の成功を確信していたアンドレイ・ボゴリュブスキーは、同盟軍の総指揮を息子に任せ、自らは出立しなかった。

 キエフにいたムスチスラフ二世が破滅の危機を知ったのは、あまりに遅かった。従士団を集める時間はすでになく、二日の間彼はキエフを守り通したが、1169年3月12日、同盟軍はキエフを強襲して占領した。家族を連れずに弟のヤロスラフだけを伴った大公ムスチスラフ二世はヴォルィニに去り、翌1170年の秋、そこで死去した。ムスチスラフ二世はウラジーミル・ヴォルィンスキーにある至聖生神女教会に埋葬された。

 次回は「アンドレイ・ボゴリュブスキー(統治1169-1174)の青年時代」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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