◆ 第61回 新首都ウラジーミルの誕生
1157年、大公ユーリーが亡くなった。ロストフとスーズダリの貴族は、自国において地元の公一族の家系を確立しようと画策した(当地はユーリー一族の世襲地であった)。それは、キエフから大公の息子たちが統治者として彼らのもとに送られてくる伝統を廃止させるためであり、彼らは民衆の同意を得て、統治者としてユーリーの息子アンドレイを選び出した。アンドレイは、「ロストフとスーズダリの父の玉座に就いた」のである。
統治権を与えられたアンドレイはまず最初に、ロストフ‐スーズダリの従士団の中の重要なポストに自分が信頼する者を就けた。その後、父親ユーリーに仕えていた貴族上層部の者たちすべてを遠ざけた。というのも、南方の諸都市を治めた経験から、アンドレイは、ロストフとスーズダリの古参の貴族が幅を利かせるならば、自分は常に住民の意見や気持ちに迎合しなくてはならなくなる、と予想したからであった。通常、住民は古い慣習にしたがって、民会の権力の方が公のそれよりも勝っているとみなしていた。
しかしながら、それとは異なる地があった――クリャージマ河畔のウラジーミルである。そこの住人は大体が移民者からなっており、アンドレイがウラジーミルを治めていたほぼ20年の間に、ルーシの南から彼のもとにやってきた者たちであった。そこでは、古参であることをひけらかす地元の貴族はおらず、住民の反対や強情さを恐れる必要はなかった。こうしてアンドレイは、クリャージマ河畔のウラジーミルをロストフ‐スーズダリ公国の新しい首都として宣言し、その地にある自らの公邸を権威あるものにしたのである。スーズダリとロストフから重要都市の地位が取り去られることは、地元貴族らにとってまったく面白くないことだったのは事実である。アンドレイに敵対する貴族らは、アンドレイに対抗してロストフやスーズダリの統治に彼の兄の息子たち――ロスチスラフの子、ヤロポルクとムスチスラフ――を招くことに決めた。しかし、ヤロポルクとムスチスラフはすぐに、ロストフとスーズダリをアンドレイの兄弟である彼らの叔父たち――ユーリーの子であるミハイルとフセヴォロド――に譲り渡すことを余儀なくさせられた。それと同時に、クリャージマ河畔のウラジーミルは新しい首都の地位を完全に確立させた。ロストフとスーズダリの諸公はウラジーミル公と呼ばれ、彼らの上位にある者はウラジーミル大公と呼ばれるようになった。
ロストフ-スーズダリの最古参の貴族を国政から引き離すことは、アンドレイの側からすれば誓約違反ではなく、彼が思い描いていた計画の第一歩であった。南方における諸公の内乱の真っ只中でその青年期を過ごした彼は、国家のあらゆる災厄の原因に通じ、少なくとも自分の公国ではその原因を取り除きたいと欲していたのである。
次回は「キエフの陥落」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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