◆ 第66回 旧都市と新都市の争い
1174年の夏にウラジーミル大公アンドレイ一世が殺害された後、地方の住民には公を選択する道が開かれ、その結果、二つのグループの間で権力闘争が繰り広げられることとなった。というのも、一方のクリャージマ河畔のウラジーミルやペレヤスラヴリ-ザレスキーといった都市は、亡くなった大公の弟たち――ミハイルとフセヴォロドを統治者として招き(彼らの内の一人は年長制の権利にしたがって大公位に就くはずだった)、他方のロストフやスーズダリといった都市は、ユーリー・ドルゴルーキーの死去した長男ロスチスラフの息子たちで、ミハイルやフセヴォロドの甥に当たる、ムスチスラフとヤロポルクを招いたからである。
田舎だったクリャージマ河畔のウラジーミルが新たな首都となったことに我慢のならなかったロストフの人々は、次のようにおどした。「ウラジーミルは我々の付属都市である。ウラジーミルを焼き払うか、再びそこに我らの代官を派遣しよう!」と。ロストフ-スーズダリの貴族らの目論見は明白であった。それはすなわち、アンドレイの甥たちを公位に就け、彼らの陰に隠れて自分たちの懐具合に損害がないように、万事を取りしきる算段であった。新たな首都に屈辱を与えたいという熱望において、貴族らと民衆の思いは一致を見たのである。
最初、この闘争で優勢だったのは、甥たちの方で、兄のムスチスラフがロストフ-スーズダリに、そしてそこの民会の決定によって、弟のヤロポルクがウラジーミルに座した。この当時、年長都市であったのはロストフ-スーズダリであり、ウラジーミルはその付属都市という性質を払拭し切れずにいて、年長都市が自分の付属都市のために民会で代官を選ぶ権利を有していたのである。
それでも一族の年長制に敬意を払って、彼ら兄弟は共同統治者として自分たちの叔父である、ミハイルとフセヴォロドを招いた。しかし、ちょうどこの頃、スーズダリの諸都市間で不和が起こり、ミハイルとフセヴォロドはスーズダリの地からチェルニーゴフへ去った。
ヤロポルクとムスチスラフの名の陰に隠れて、ロストフ-スーズダリの貴族は各郷の自分たちの手先を通して、住民から容赦なく巻き上げ始めた。最初に憤激したのは、ウラジーミルの「新しい小さき人々」であり、スーズダリやペレヤスラヴリ、また他の諸都市に住む住民が彼らを支持した。ウラジーミルの人々は、確固たる支持を約束して大公国へミハイルを招いた。1175年5月の末、ミハイルは従士団と彼の兄弟フセヴォロドを連れてウラジーミルへ到着した。彼はぐずぐずすることなく、野外戦闘で甥たちの軍隊を撃破し、ウラジーミル大公位に就いた(統治1175-1176)。
ミハイルが権力の頂点に座していたのはわずか一年余りに過ぎなかった。
1176年6月20日、ミハイルはウラジーミルで逝去し、その地のウラジーミル・サボール教会に埋葬された。
次回は「フセヴォロド三世(大巣公)の生い立ち」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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