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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第65回 大公アンドレイ、惨殺される

ボゴリューボフの地(現在のボゴリューボヴァ村)

 1174年は、大公アンドレイにとって悲劇の年となった。その夏の初め、貴族のスチェパン・クーチカの兄弟の一人が何らかの悪事によって摘発され、アンドレイによって処刑された。アンドレイは最初の結婚で、スチェパン・クーチカの娘ウリタを娶っていたにもかかわらず、である。処刑されたスチェパンの別の兄弟ヤキムは、自分にも同じ運命が襲うかもしれないと危惧した。というのも、アンドレイの残酷さは知れ渡っていたからである。ヤキムの友人らと親族のごく限られた仲間内で、ボゴリューボフにあるアンドレイの公邸で彼を殺害することが企てられた。幾つかの史料では、この陰謀にはアンドレイの二番目の妻も加わっていたことが伝えられている。彼女はカマ・ボルガル地方の出身であり、アンドレイがユーリー・ドルゴルーキーの時代に彼女の祖国を襲撃したことのために、彼に復讐しようと決めていた。およそ20名の共謀者が集まり、その中には大公の側近の召使二人もいた。注目すべきことは、共謀者の内、誰一人として個人的にはアンドレイから傷つけられたり侮辱されたりした者がいなかったということである。企ての前日に、召使の一人である鍵番のアンバルが、公の寝室に保管されている戦闘用の剣を盗み出した。1174年6月29日の夜、共謀者たちは公の屋敷にやって来て少数の警備兵を皆殺しにし、アンドレイの寝室へ押し入った。武器を持たないアンドレイは抵抗したが、結果は明らかであった。大公を始末したと判断した殺人者らは出口へ向かった。しかしながら、無数の傷にもかかわらず、アンドレイは生きて、玄関までたどり着くことができた。アンドレイのうなり声を耳にした殺人者らは引き返し、アンドレイの右腕を切り落とし、息の根を止め、衣服を脱がせ、菜園の中へ遺体を投げ捨てた。

 翌朝に出来事を知ったボゴリューボフの人々は殺人者らにならって、大公の多くの召使は殺し、彼らの家を略奪した。大公殺害の知らせが広まるにつれて、混乱がウラジーミルとその周辺に起こった。大公の長官や税徴収人、またその時のはずみで、権力機構にいかなる関係も持たない人々――裕福な地主や都市住民も略奪され、殺害された。三日目の末に、民衆はようやく静かになった。

アンドレイによって建設されたウラジーミルの黄金の門

 アンドレイの遺体は、カズマという大公の忠実な召使であった者が見つけた。彼は亡骸を絨毯に包んだ後、教会へ運び、三日目にアンドレイの葬礼を行い、石棺に安置した。略奪と殺害にうんざりしたボゴリューボフの人々は、葬儀を妨害しはしなかった。アンドレイの亡骸は、ボゴリューボフから運び出され、聖生神女教会に埋葬された。

 1702年、大公アンドレイの遺体はウラジーミルのウスペンスキー聖堂へ移され、彼の名が冠されたそこの付属礼拝堂に埋葬された。

 次回は「旧都市と新都市の争い」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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